ロシアのウラジーミル・プーチン大統領はナチス・ドイツに対する偉大な勝利から80年目に当たる2025年を「祖国防衛者の年」にすると宣言。【ブレンダン・コール】 「ウクライナの非ナチ化」のために戦う兵士たちを、祖国を守る英雄として称揚しようとしている。だが皮肉にも、兵士の大量帰還はプーチンの支配を脅かすリスクをはらむ。 累々と横たわる同胞の死体を見てきた兵士たちがどっと帰ってくれば、クレムリンのプロパガンダはもろくも崩れ去り、ロシア社会は大混乱に陥りかねない。 米シンクタンクの戦争研究所(ISW)によれば、ロシア政府は既にこうしたリスクに気付いて対策を取りつつある。 プーチン政権は戦況を有利にするため人的犠牲をいとわずに人海戦術を続ける一方で、国内では膨大な数の死傷者が出ていることをひた隠しにしてきた。だが兵士たちが戻ってくればもはや事実は隠せない。 市民の怒りが爆発するのは時間の問題だろうと、安全保障の専門家は言う。 兵士の帰還は直接的に現体制を脅かすことはないにせよ、ソ連崩壊後の混乱期よりもはるかに深刻な治安の悪化を招きかねないと、反プーチン派のロシア人は本誌に語った。 プーチン政権はウクライナ侵攻後1年たった頃から退役軍人のための支援組織の設置に乗り出した。表向きその目的は帰還兵の社会復帰の支援だが、実際には帰還兵を政権の監視下に置くことだと、ISWは分析している。 ISWによれば、ロシア政府が警戒しているのは、退役後も心的外傷後ストレス障害(PTSD)にさいなまれ、社会復帰が困難な帰還兵が徒党を組むことだ。 これには前例がある。1979年にアフガニスタン侵攻を開始したソ連軍は10年に及ぶ戦闘の末、89年に撤退した。「アフガンツィ」(ロシア語でアフガン人という意味)と呼ばれたソ連兵が心身共にボロボロの状態で帰国すると、社会には動揺と混乱が広がった。 プーチン政権は同じ轍を踏むことを恐れている、というのだ。 「兵士の大量帰還が治安上のリスクとなるのは明らかだ」と、リスク管理に詳しい元米陸軍大佐のセス・クラミッチは言う。「短期的にはともかく、中長期的には、プーチン政権、さらにはその後の政権にとっても深刻な問題になるだろう」 政権内でも警戒の声が ウクライナ侵攻におけるロシア軍の死傷者数や戦況の詳細に関する報道は厳しく検閲されてきた。戦闘が続いている間はごまかしが通用したが、兵士たちが帰ってくればそうはいかない。だまされていたと知った国民の怒りや帰還兵とその家族の不満を抑えるのは生易しい業ではない。 「国民に真実を、兵士とその家族に経済的支援を提供しなければ、社会不安が高まるだろう」と、クラミッチは言う。「アフガン侵攻後のように、戦場で負傷して障害を負った退役軍人が街中で目につけば、人々は嫌でも真実を知ることになる」 ロシアは兵士不足を補うため、恩赦を与えるか、半年間従軍すれば釈放するといった条件で刑務所で志願兵を募った。報道によれば、今はこの方法は採用されていないというが、プーチン政権内部でもこうした兵士の帰還を危惧する声が上がっている。 ロシア大統領府第1副長官のセルゲイ・キリエンコは昨年7月の政権内の会議で、ウクライナからの帰還兵が社会に「うまく適応できず」、犯罪に走って市民の反感を買う事態を警告したと伝えられている。 キリエンコは、ウクライナからの兵士の帰還はロシアを揺るがす「最大の政治・社会的なリスク要因」になりかねないと述べたという。 「大規模な犯罪の波が来る」 一方、ロシア生まれの経済学者で、軍に関する虚偽情報を流布した容疑で逮捕状が出ているコンスタンチン・ソニンは、プーチンが新たな兵力の確保に注力しているため帰還兵が政権への喫緊の脅威になることはないとしつつ、別の形でロシア社会にリスクをもたらす可能性を指摘する。 「90年代初頭を上回る大規模な犯罪の波が訪れるだろう」と、ソニンは本誌に語った。「アフガン戦争後と比べて、帰還兵の数は最大で10倍も多い。彼らは武器の扱いに熟達しており、犯罪組織にとっては格好のリクルート対象だ」 しかも、プーチン政権は刑事司法制度の信頼性を著しく損ねてきた。「今の犯罪者は皆、どんな罪を犯しても戦争に行けば免責されると知っている」と、シカゴ大学ハリス公共政策大学院の卓越教授であるソニンは付け加えた。 40年ほど前のアフガン侵攻と同じく、22年のウクライナ侵攻も短期間で勝てるというロシア政府の誤った前提に基づいて始まった。 帰還兵には社会を不安定化させる力があるという事実をロシア当局は熟知しており、政府の権威を失墜させる政治運動を封じ込めようと躍起になっている。 22~23年の反体制運動では、個人的な政治目的のために現役兵士や退役軍人を利用するケースが相次いだ。その代表格がクリミア併合に深く関与した元将校イーゴリ・ギルキンと、民間軍事会社ワグネルを率いたエフゲニー・プリゴジンである。 だが政府批判を繰り返したギルキンは禁錮刑を宣告され、プリゴジンは23年6月の反乱失敗後に飛行機事故で死亡。これによってプーチンは帰還兵コミュニティーからの当面の脅威を抑え込むことに成功したと、ISWはみている。 また、プーチン政権は国営の帰還兵組織を設立し、独立性の高かったワグネルなどの組織に所属していた多くの傭兵を統制下に置いた。さらにウクライナ侵攻に参加した軍人を政府要職に登用する教育プログラム「英雄の時代」も始まり、多数の忠誠派が権力の座に就いている。 軍事アナリストのハリー・フランシスコ・スティーブンスとトーマス・ラタンツィオはウェブマガジン「ウォー・オン・ザ・ロックス」で、忠誠派の官僚という新たな層が生まれ、プーチンの好みでなかった政府関係者が排除されるだろうと論じた。 ロシアの独立系民間調査機関クロニクルズが昨年9月に行った調査によれば、兵士の37%が報酬目当て(最大3万5000ドルの前払い金)で軍に志願しており、市民としての義務を理由に挙げた兵士は24%にとどまった。 生還した兵士らは故郷の町や村で、比較的豊かな生活を送ることになる。 だがウクライナでのロシア軍の死者が21万1000人に達する可能性も指摘されている現状では、帰還兵が社会復帰できるか、社会が彼らを受け入れるかは、人的被害の真相がどこまで明らかにされるかに懸かっている。 アフガン侵攻でのソ連軍の死者は1万5000人と比較的小規模だったが、それでも帰還兵は不満を募らせていたと、ソニンは言う。「ウクライナ戦争でも同じ現象が起き、誰もが戦死者について語る日が来るだろう」