ブラジル日系社会=『百年の水流』(再改定版)=外山脩=(151)

彼は前年の三月、スパイ容疑で捕まった。この時も、ポ語各紙は大々的に写真入りで報道した。 例えばフォーリャ・ダ・ノイテ紙(1942年3月18日)の記事は、要旨次の様な内容であった。 「榛葉は一九二八年、一農業者として渡伯、三八年僧侶となり、法衣を纏って宗教活動をしていた。その費用は日本政府によって賄われていた。 彼は東京に警視総監や宮廷参議官の兄弟が居り、その兄弟に宛てた手紙により、当人の行動がブラジルにとって驚くべき有害、危険なものであることが判明した。 該書簡には、こういう言葉が述べられている。 『ブラジル政府並びに国民は、枢軸国人に対して敵対的態度を示しているが、殊更日本人にそうである。 我々の新聞、雑誌の発行を禁じ、その他あらゆる迫害と屈辱を強圧なる方法で与えた。 そのため日本人は非常なる困難に直面し、幾多の悲劇が起こりつつある…(略)…自分は、ブラジル政府が吾人並びに吾が同盟諸国人に対して苛酷なる方法をとったことを怪しまない。 なんとなれば、この国の人間たるや、時代遅れで野蛮で無智で、北米合衆国の膝下で奴隷的に生きる民だからである』 …(略)…」 榛葉は、宮内省勤務の弟がいるだけであり、警視総監の兄弟などいなかった。スパイ行為も全くしていなかった。 が、逮捕後DOPSに五カ月留置され、リオのイーリャ・ダス・フローレスに送られて九カ月後、再びここに戻されていた。 5号室には、児玉満という青年もいた。 児玉は数カ月前、マリリアからサンパウロへ出てきて、バールでカフェーを飲んでいると、ブラジル人が話しかけてきた。 彼は枢軸国人を装って戦争の話を始め、 「アメリカが日本にやっつけられたら、ブラジルも相当に困るネ」 などと誘いをかけてきた。 公の場での、この種の話は禁じられていたから、児玉は警戒、ブラジル人がブラジルの悪口を言うことについて、きつく注意した。 すると、男は服の裏につけていた徽章を示し、児玉をスパイ容疑で近くの憲兵隊に連行、引渡して出ていった。憲兵の下っ端だったのだ。 この仕打ちに児玉は激怒、事実を士官に告げた。士官は部下に、その憲兵を探しに行かせ呼び戻し、児玉と対決させた。真相は明らかになり、その男は馘首された。 児玉はマリリアに戻り、日常の生活に戻っていた。が、ある日、地元の警察署に連行され、さらにサンパウロのDOPSへ送られた。着いたとき、児玉の前に現れ、ニヤリと笑ったのが、あの憲兵の下っ端だった。今度はDOPSの下っ端をしていたのだ。 今度は、うまく上司を騙したのであろう、児玉を「危険思想を抱く人物」として一回の取調べも行わず、留置し続けた。既に三カ月になるという。 もう一人、マリリアから来ている青年がいた。 彼は父親の棉農場で働いていたが、町のバールで知人と日米戦争の形勢について議論し、 「アメリカが負ける」 と言ってしまった。 それを聞いていた誰かが警察に通報したため、呼び出され、サンパウロ送りとなった。以後九〇日間、ここに居るということだった。 別の一人は、バストスの住人で、戦前、大政翼賛会ブラジル支部の設立を目指す有志の集りに招かれて出席した。 その出席者の名簿が、国交断絶後、警察の手に渡り、めぼしい人間は家宅捜索を受けた。 その折、彼の家から海軍時代の写真が出、日本の軍部から派遣された特別使命を帯びた人間ということにされてしまった。 六カ月間、地元の警察に留置された。釈放三カ月後再び逮捕され、ここに連れてこられた。彼は、岸本と会って間もなく、リオに送られた。 サンパウロ州西部ノロエステ線ヴァルパライーゾで請負農をしていた一邦人の場合。 彼は、流れ者の労務者に酒代をたかられた。拒否すると、労務者は、彼がブラジル人に反戦思想を吹き込んだ、と警察に訴えた。 サンパウロに送られ、六カ月後に釈放された。が、三カ月後、再び地元で拘引され、またサンパウロへ送られてきて、ここに居るということだった。 この他、路上で日本語ならぬ英語で話をしたため、逮捕されたという人までいた。百姓が英語を話すのはおかしい、と刑事が外国人鑑識手帳の提示を求めたので「まず、そちらから見せろ」と要求したら、激怒、引っ張られたという。

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