1894(明治27)年 日清戦争の講和条約(下関条約)で日本に割譲された遼東半島について、ロ独仏の三国が返還を勧告。日本政府は明治天皇の聖断により、「三国干渉」の受諾を決めた。その代償として3000万テール(両)、邦貨換算4000万円が支払われた。下関条約ですでに決まっていた賠償金2億両と合わせて3億6000万円と日本の国家予算4年分に相当する巨費を手にした。ロシアは同半島南部を清国から租借し、対ロシア交戦論の導火線となった。後の日露戦争の勝利で遼東半島の租借権は日本に移り、大連を中心とするこの地域を大陸進出の足がかりとした。