「近代日本の先駆者」とされる田沼意次と田中角栄、2人の政治家の類似点とは

歴史上には様々なリーダー(指導者)が登場してきました。そのなかには、有能なリーダーもいれば、そうではない者もいました。彼らはなぜ成功あるいは失敗したのか? また、リーダーシップの秘訣とは何か? そういったことを日本史上の人物を事例にして考えていきたいと思います。 ■ 「金権主義の賄賂政治家」であるか否か 田沼意次が徳川幕府の老中の座についたのは、安永元年(1772)、54歳の時でした。意次と言えば一般には「賄賂政治家」のイメージが濃いと思いますが、果たして、それは本当だったのでしょうか。「賄賂」に関しては、次のような様々な逸話が残っています。例えば、意次が暑気あたりで寝込んだ時。見舞いの使者がやって来て、意次の家臣に「殿様は何を喜ばれるでしょうか」と尋ねます。 するとその家臣は「殿は、枕元に岩石菖(ユリ科の多年草)を置いて、楽しんでおられるようです」と回答。この話は忽ち諸方に伝わり、多方面から様々な岩石菖が送られてきたとのこと。広大な座敷に隙間なく並ぶ岩石菖に田沼家の人々も困惑したそうな。またある時、意次は「泉水に、魚を入れたら面白いだろうな」と呟き登城します。夕方、屋敷に帰ってみると、池には誰が持ち込んだものか、威勢の良い魚が泳いでいたとの逸話も有名なものです。 更に『江都見聞集』という書物には意次の次のような言葉が記されています。「意次は常に言っていた。金銀は人々の命にもかえ難きほどの宝であると。その宝を贈っても、ご奉公をしたいと願う人であれば、上にたいして忠であることは明らかである。志の厚いか薄いかは、贈物の多いか少ないによって分かるものだ」と。 また、同書によると、意次は「私は日々、登城して、国家のために苦労しているので、一刻も安心できることはない。ただ、我が邸の長廊下に、諸家からの贈り物が夥しく積み置かれているのを見ることが、我が心を慰めてくれる」とも語っていたようです。 意次が本当にこのようなことを語っていたのかについては、史家の間でも見解の相違があります。幕府の老中になる程の男が、そのようなはしたないことを言うはずがない、前述の言葉は、誰かが意次の心中を思い計って述べたものではないかという見解。いや、意次は朴念仁ではない、軽口の1つや2つ言うはずだとする意見。どちらが本当かは軽々には判断できません。が、田沼が「金権主義の賄賂政治家」であるか否かは、議論が分かれているところであります。

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