武市半平太、壮絶な最期と歴史的意義、山内容堂の策略と罠による投獄と尋問の経緯

(町田 明広:歴史学者) ■ 山内容堂と武市半平太の問答 文久3年(1863)4月以降、山内容堂は土佐に帰藩直後から、大規模な人事異動を実行し、即時攘夷派寄りの要路を全て解職した。そして、土佐勤王党の解散・脱党を推進した。6月3日、こうした容堂の方向性に対し、武市半平太は意見書を提出し、一藩勤王を容堂に主張したのだ。 6月7日、藩主豊範は令旨問題を理由として、平井収二郎(義比・隈山、贈従四位)・広瀬健太(年足、贈従四位)・間崎哲馬(則弘・滄浪、贈従四位)に切腹を沙汰した。武市は、容堂に助命嘆願をしたものの、その要望は無視されて9日に執行された。 7月29日、武市は容堂に拝謁して意見を開陳した。両者の問答を確認してみたい。 武市:人材の抜擢が最も急務である。 容堂:それ自体には賛成するが、隠居の身であり、大老公豊資への相談が必要である。 武市:攘夷実行は5月10日が期限とされ、幕府は襲来討払を命令した。しかし、長州藩が無二念打払を実行し外国船を砲撃したのみである。それに対し、7月に土佐藩は朝廷へ建白書を出したが、幕府・長州藩の仲介をすると不審な内容である。 容堂:通商条約を締結した際、日本のためとなれば永続させ、ためにならなければ何時でも止めると言うことだった。この度、日本のためにならないとすれば、止めれば良いわけで、外国が承復すれば世は大平となろう。 武市:容堂は速やかに上京すべきである。 容堂:朝臣として、その必要性は了解している。しかし、病気のため不可能であるため、代理で実弟・兵之助に委任したい。 武市:長州藩は窮地に陥っており、同志全員で救援に向かいたい。 容堂:長州藩が兵端を開いたことは粗忽である。しかし、叡旨に従っているため罪は問えず、幕府に責任の所在があることは間違いない。 武市:朝廷からの国事周旋の依頼を受諾すべきである。 容堂:江戸では、攘夷別勅使の応対に努力した。攘夷は決定し、君臣の名義も実現した。将軍が違勅の場合、将軍の首を自ら討つつもりである。 武市は容堂と5時間に及ぶ大激論を交わしたが、十分な手応えを感じている。確かに、この問答からは、容堂が武市の言説に同意したように見える。しかし、武市は容堂の腹の底を見抜いておらず、実態としては、容堂にうまくあしらわれた格好であったが、武市の容堂への信頼・期待は増すばかりであったのだ。

シェアする

  • このエントリーをはてなブックマークに追加