『サブスタンス』が映す“まなざし”への吐き気と自傷 ショットで語る“本質”とは

〈見て見てみて かわいいね 細すぎる 太すぎる デカすぎる チビすぎる 死ぬ死ぬ死ぬ 女が死ぬ〉 ちょうど私が映画『サブスタンス』を試写で観たのは、アーティストのちゃんみながプロデュースするガールズグループのオーディション番組『No No Girls』が最終審査を終え、メンバーが発表された直後のことだった。冒頭で引用したのはこの番組の主題歌にもなった、ちゃんみなの「NG」という曲の一説。『サブスタンス』鑑賞後、「とんでもないものを観たな」という感覚と同時に、この曲を思い出した。ああ、そうそう、こうやって死ぬよなって。 カンヌ国際映画祭やアカデミー賞などを騒がせたコラリー・ファルジャが監督を務めた本作は、女性の身体についての映画だ。多くの人に観てほしい反面、グロテスクな表現も多く人を選ぶ作品ではある。しかし、そのグロテスクさが語れることこそ監督の狙いであり本作の持つ力なのだ。強烈な吐き気を催し、吐瀉物を経てスッキリする。この一連の工程と“本質”を意味する『The Substance(サブスタンス)』という題名の映画が問う“本質”について考えたい。 ・ショットの構図から読み取る主人公の立ち位置 デミ・ムーアが全身ヌードで出演するなど、その体当たり演技が話題になり、第82回ゴールデングローブ賞で主演女優賞(ミュージカル・コメディ部門)を受賞したことでも知られる本作。彼女が演じるエリザベス・スパークル(まさにキラキラネーム!)は、かつてハリウッドで一世を風靡した元人気女優。映画の冒頭では彼女のウォーク・オブ・フェイムの星が制作され、人々が観光に訪れ、徐々に薄汚れていく過程が、人気の絶頂から衰退を表現する形で描かれる。 その直後、つまり人気が落ち込んだ女優として画面に映った彼女は、エアロビクス番組の収録を行っている。正直、ムーアのプロポーションが60歳を超えた身体には到底思えず、この時点で私は度肝を抜かれたのだが、このショットで彼女を綺麗に映すことで観客に「十分綺麗なのに」と思わせることにもファルジャ監督の思惑を感じる。そしてこのエアロビで思い起こされた存在がジェーン・フォンダだ。エリザベスがフォンダからインスピレーションを受けた存在であることは監督自身が話していることでもあるが、演じるムーア自身も全身整形の経歴やこれまでのハリウッドのキャリアを踏まえるとセルフパロディ的なことを本作で担っている。そのリアリティによって、ますます画面に映る彼女のuncomfortableness(居心地の悪さ)が強調され、映画そのものが観る者にも気まずさや悲しさ、不快感、驚愕など様々な感情を抱かせる構造になっていた。 エアロビの収録を終えた彼女は、テレビ局の廊下を歩く。そこには若かりし頃の彼女のポスターがズラリと並んでいて、その日50歳を迎えた彼女はその中を前に向かって進んでいく。時の流れ、加齢を巧みに表現するシーンだが、廊下の突き当たり近くまでいった彼女をエレベーター側から捉えたシンメトリーなショットの構図も凄い。手前に大きく映るのはかつての自分で、今のエリザベスはそのずっと奥に小さく映っている。過去の栄光そのものが自身にとっての脅威であり、50歳を迎えた彼女の心細さだけでなく、本作における彼女の立ち位置がこのワンショットで説明されているのは本当に素晴らしかった。 お手洗いに行きたかっただけだったのに、“なぜか”女性用は使えなくなっていて扉を開けることができない。その背後にある男性用トイレに仕方なく入るエリザベスだが、彼女が個室に入った後にやってくるのがデニス・クエイド演じるハーヴェイだ。ハリウッドの大物プロデューサーであり数多くの性暴力・性的虐待によって逮捕されたワインスタインと同じ名前なのが趣深い。彼は電話で話しながら彼女に向けて醜悪な言葉をかけ散らかした後、手も洗わずに去っていく。その後トイレから出てきたエリザベスは、鏡に映る自分を見つめる。その空間そのものが、ハーヴェイが彼女に向けた言葉とアンモニア臭で汚れているのだ。自身に向けられたたくさんの「No」という言葉を手洗いで洗い流すように、気持ちを切り替えようとするエリザベスだったが、次のシーンでは再びハーヴェイのグロテスクな海老の食べ方によって打ちのめされる。 ・エリザベスとスーに向けられる“男性のまなざし” ランチシーンでは汚い口元に次々に運ばれては噛み砕かれる海老も、まともに手を吹かずに男性の知り合いの元へ向かったハーヴェイが残した飲み物の中で溺れるハエも、彼女自身を象徴している。この映画に登場する男性のほとんどが、このようにエリザベスに対して理不尽なレベルで失礼で、気持ち悪くて、どこか不潔なのだ。唯一ありのままの彼女を美しいと褒めちぎっていたフレッドでさえ、連絡先を書いた紙が適当なだけでなく、それを泥水の中に落とし、拭こうともせず悪びれもせずに彼女に渡す。海老のシーンも凄かったが、個人的にはこの連絡先交換シーンが一番「どうして!?」と叫び出してしまいそうになった。 しかしこのシーン、「もしかしたらこれは“エリザベスからの見え方”であって、本当は目の前で起きていないことかもしれない」とも思えるのだ。なぜなら先述のハーヴェイや後に登場するアパートの隣人が扉越しにスーに対して浴びせる言葉も含め、本作では男性から受けるハラスメントが少し誇張的に描かれている。それらが受けての気持ちを反映させた上であのような表現になっているとすれば、老いに敏感なエリザベスにとって、覚えているわけもない昔の知り合いのおじさんからもらう連絡先は“泥水に濡れた”ものだったのかもしれない。しかし、その純粋な好意さえ素直に受け取れなかったところに本作の根幹を感じる。

シェアする

  • このエントリーをはてなブックマークに追加