ゆるふわ国家意識の終着点・決戦兵器「伏龍」

(文中敬称略) 「えずく」とは嘔吐(おうと)しそうだと感じるという意味で、えずきとは嘔吐感のことを指す。体に悪い物を食べてしまった時、消化器官の調子が悪い時、深酒が過ぎた時、人はえずく。具体的には、強酸性の胃液が食道を上ってくるのを感じ、胃に内容物があった場合には半分消化されたかつては食物であった異臭を放つ流動体が口から飛び出してくる。胃が空っぽの場合はさらに苦しく、pH値1~1.5という強酸性の胃液が、食道を上ってきて口腔(こうくう)にあふれる。 もうひとつ、「えずく」という形容を使用する局面がある。あまりに不快なものを見聞してしまった時だ。 というわけで今私はえずいている。参政党のポスターを見てしまったので。 選択基準が曖昧な過去の日本の歴史上の人物5人に続けて、「特攻隊員」というキャプションの付いた海軍飛行服の少年兵2人。中央にどうやらこれは参政党党員らしき現代人4人が立つというイラスト。これは過去からの連続を表現したつもりらしい。 その上で、「これ以上、日本を壊すな!」というキャッチフレーズと「次は私たちの番だ」という宣伝文句――このポスターを見た時に、私の胃袋の底からせり上がって口から吐き出されたのは「ゆるふわ国家意識」という言葉であった。 ●ゆるふわ国家意識は溺れる人を食い物にする 私の造語である。 造語である以上は、きちんと定義しないといけない。 「日本人は素晴らしい。だから日本人は誇りを持って団結し、さらなる発展を目指せ」という国家意識は、明治以降、日本が国際社会へ船出するに当たっての心理的基盤になった。 しかしながら、そんな国家意識の果てに、1945年の無条件降伏・敗戦が来る。 敗戦で明確になったことの一つに「国家意識のバリエーションの中には、驚くほど安っぽく薄っぺらいものがある」ということが挙げられる。 この「安っぽく薄っぺらい国家意識」を、私はゆるふわ国家意識と呼ぶ。 ゆるふわ国家意識は以下のように特徴付けられる。ゆるふわ国家意識は人種・貧富などの差別を好み、差別することで相対的に自分を優位に置こうとする。そもそも国家主義は国や民族の出自、物事の判断基準に、“美しい物語”を置くことを好むのだが、なかでもゆるふわ国家意識は特に、嘘や事実誤認を含む“美しい物語”を好んで採用する。ゆるふわ国家意識が好む“美しい物語”には、a:史実に基づく根拠(歴史学的検証)、b:物理現象的な根拠(自然科学的検証)、c:人間社会の合理的解釈に基づく根拠(民俗学・社会学的な検証)が欠如している。 要約するなら「自分を甘やかす虚偽の美しい物語をばらまき、他者を差別することによる偽りの優越感を社会に拡散する」のが、ゆるふわ国家意識である。 ゆるふわ国家意識に引き寄せられるのは、社会の中で抑圧されて、自尊心を傷つけられている人々だ。その意味では、ゆるふわ国家意識は弱者に偽りの優越感を配分することで、弱者からさらに搾取する貧困ビジネスの一種ということができる。溺れる者はわらをもつかむが、わざとわらをつかませて稼ぐ商売、と言えようか。 では参政党のポスターのどのようなところがゆるふわ国家意識の定義に一致するのかだが、もう指摘するところが満載でため息をつくしかない。 聖徳太子、天武天皇、北条時宗、徳川家康、西郷隆盛というラインアップがそもそも意味不明だ。元寇(げんこう)時の鎌倉幕府の執権の北条時宗が入っていることから「国難を退けた人」ということか、とも想像できるが、西郷隆盛は西南戦争で明治政府に反逆し、最後は自刃している。 ●特攻兵器にも松竹梅がある そしてこのラインアップに続くのが「特攻隊員」というところが、ゆるふわの核心であろう。描かれた少年2人の着用する軍服から、どうやら対米戦末期に旧海軍が組織した神風特別攻撃隊らしい。彼らは格好良く、りりしく描かれている。 しかし待ってほしい。神風特別攻撃隊は、いわば特攻の松竹梅のうちの松なのだ。そのうしろには竹、そしてもっとも悲惨な梅が控えている。 うな重の松を食べてうな重という食べ物全体を分かった気になってはいけない。

シェアする

  • このエントリーをはてなブックマークに追加