治安維持法が1925年に制定されてから、今年で100年になる。 破滅的な敗戦までの20年間、国民の良心や言論の自由を奪い、軍国主義を突き進める弾圧の道具となった。国家による統制の危険性を改めて胸に刻みたい。 1940年に「京大俳句」メンバーが治安維持法により検挙された。「京大俳句」は花鳥諷詠や季語に縛られない大きな余白に、新しい表現を模索する俳人が集まっていた。俳人平畑静塔の京都地裁記録によると「ネクタイを締めて薄給かくす夏」という俳句が、「反戦思想を含蓄せしめたる作品。資本主義に対する反抗を示唆」などとみなされ、犯罪を共謀した証拠へと仕立てられた。 国体変革と私有財産の否認という思想信条を取り締まり対象にした同法が衆院を通過した時、「天下の悪法案」「言論圧迫、無産者圧迫に憤る声」と本紙の前身、京都日出新聞は報じている。 京都大生や同志社大生らが逮捕された「京都学連事件」が治安維持法の適用第1号で、昭和前期を覆う言論統制の序曲となった。29年には最高刑を死刑とする同法改正に反対した京都選出の山本宣治代議士が、右翼に刺殺された。 特高刑事による尾行や密告がはびこる「監視社会」になり、反対の声は消えていった。 大学のまちであり、自由で進取な気風の京都は、弾圧史の縮図だ。「貧乏物語」著者で京都帝国大教授の河上肇が逮捕された。京都府警の警官隊が亀岡と綾部の宗教団体「大本」の本部を急襲し、同法を宗教団体に初適用した。盧溝橋事件で日中戦争に突入すると、雑誌「世界文化」を発行していた京都の若い学者や映画人らが大量検挙された。いずれも30年代である。 心の内面を取り締まる悪法の恐ろしさは、自白強要や拷問など捜査手法の暴走にとどまらず、「非国民」とみなされることを恐れて社会全体が抑圧する側に回り、国や為政者への批判を許さなくなることにある。 1世紀を隔て、今また「国益」や治安対策を過度に強調し、少数者の立場や自由な言論を萎縮させる圧力が、ネットの投稿などに広がっている。 一方、政府が指定した情報を漏らした人に厳罰を課す特定秘密保護法や、犯罪の計画段階での処罰を目的に警察による日常監視や広範な情報収集への懸念が消えない共謀罪(改正組織的犯罪処罰法)など、この10年間に国の統制強化を図る立法が進んだ。 経済安全保障を理由に、国による民間人の身辺調査を可能にした法も先月施行された。 全体主義の根は法制度だけにあるのではない。京都で行われた治安維持法の暗黒の歴史に学び、何が社会を戦争へと駆り立てたのか、見つめ直したい。