石破茂内閣で再入閣した村上誠一郎総務相は、衆院議員に初当選した昭和61年当時、自民党が制定を目指していたスパイ防止法について「現時点においては不必要」と党内で反対していた。スパイ防止法を巡る動きを振り返ってみた。 ■「スパイ天国」返上目指した自民 戦後、日本はソ連や北朝鮮によるスパイ活動を厳しく取り締まる法律がなく、「スパイ天国」と呼ばれてきた。昭和53年10月の参院予算委員会で福田赳夫首相は「スパイ天国と言われる状態を放置しておいていいのかどうか」と述べ、将来はスパイ防止法が必要との認識を示した。 翌54年には保守系の学者や文化人が発起人となって「スパイ防止法制定促進国民会議」が発足した。55年に陸上自衛隊の陸将補がソ連に情報を流したとして逮捕されたが、自衛隊法の守秘義務違反で懲役1年に問われただけだったことから、制定の機運が高まり、地方議会での推進意見書可決が相次いだ。 57年に就任した中曽根康弘首相も積極的な姿勢を見せ、59年には「スパイ防止のための法律制定促進議員・有識者懇談会」が発足し、政界を引退した岸信介元首相が会長に就任した。現在文化庁長官を務める作曲家、都倉俊一氏も発起人に名を連ねた。 ■谷垣、鳩山氏らと意見書提出 自民党は60年、「国家秘密に係るスパイ行為等の防止に関する法律案」を議員立法で提出した。外交・防衛上の国家秘密を外国に漏らした場合、最高刑を死刑とした。 この動きに対し、社会党や共産党などは「国民の権利を制限する」などと反対した。スパイ防止法制定促進国民会議の事務局が旧統一教会(世界平和統一家庭連合)系の政治団体「国際勝共連合」だったこともあり、社共を中心とした勢力の反対運動は激しく、実質審議に入らないまま廃案となった。 61年、中曽根首相は法案の再提出に意欲を示し、党内の特別委員会が最高刑を無期懲役に引き下げるなどした修正案をまとめた。 村上氏はこの年の7月、衆院旧愛媛2区で初当選。11月に、法案に反対する自民党の中堅・若手議員12人の意見書に名を連ねた。