角川春樹&歴彦兄弟が家宝「天秤棒」の所有権を巡り法廷闘争…その結末は春樹氏訴え"全面棄却"

かつて出版界の革命児として「メディアミックス」を牽引し、時代の寵児と呼ばれた角川春樹氏(83)。そのカリスマが、実弟・角川歴彦氏(81)との“争い”の果てに、法廷で敗北を喫していた──。 2人が争ったのは、一本の古びた「天秤棒」の所有権をめぐってのことだった。 ’25年7月10日、東京地方裁判所は、春樹氏が「天秤棒」の返還を求めた訴えを「理由がない」として全面棄却。訴訟費用もすべて春樹氏の負担とする厳しい判決を下したのだ。 「天秤棒」とは、長い棒の両端に重量物をぶら下げて、両肩に担いで運搬することを目的として作られた棒のことだ。最近では、目にすることは少なくなったが、昭和の時代には、魚の行商人などが大きな魚を入れたザルを両端にぶら下げて、売り歩く姿が見られたものだ。 今回、法廷闘争となった「天秤棒」は木製で、表面が長年の使用で摩耗し、デコボコに変形した長さ168cmの棒に過ぎない。しかし単なる木の棒ではなく、巨大メディアグループ・KADOKAWAの原点であり、角川家の魂を象徴するもの。兄弟の父であり、角川書店を一代で築き上げた創業者・角川源義(げんよし)氏(1975年没)が生涯大切にした「家宝」なのだ。 源義氏は1917年、富山県の貧しい家に生まれた。角川書店創立50周年に刊行された『角川書店と私』で、源義氏は「家宝」のルーツをこう回想している。 〈私が生まれましたのは雪深い、富山の海の町でした。角川家は零落していましたから、父は小学校もろくに出ないで、弟たちを学校へやるため、幼くして船乗りになったり、魚を売って歩いたりして、大変苦労していました。天秤棒で、魚をかつぎ、雪の深い村々を売って歩いたわけです。 天秤棒に縄を止める釘が出ています。そのところがすっかり縄で摩れて痩せてしまう。縄が使えなくなるので、また、別のところに釘を打って、新しく縄が止まるようにしました。そんなものですから、天秤棒が随分デコデコの変なふうな恰好になっていたものです〉(原文ママ) つまり、「天秤棒」は、後に北陸一の米問屋となる父・源三郎氏が鮮魚商時代に使ったもので、源義氏はその天秤棒を譲り受けたわけである。 そして、1945年に角川書店を創業。しかし、初期はまさに倒産と背中合わせの状況だった。同書でこんなエピソードを綴っている。 〈私はある夜、夢を見ました。返品の本を広場に積ませて、火をつけてもらいました。私はその返品の山とともに往生するという夢なのです。その返品の山を焼いてもらうときに、著者の先生方に大変申訳けなく『とうとうつぶれてしまうことになりました。せめてもこの本をぞっき本に出さないで(ぞっき本というのは安うりすることなのです)それだけは喰い止めました』といって、返品の山の中で焼け死にしようとしているのです。が、少しもあつくないのですね。 そしてふと目がさめました。そういうときにも、父からもらった天秤棒を取り出してみて、負けちゃならんと思い、もう一度がんばろうという気持になることがあったのです〉(原文ママ) ◆法廷闘争──「父との約束」とは 天秤棒は単なる思い出の品ではなく、逆境に屈しない角川家の精神であり、角川書店の経営理念そのものなのである。 源義氏は1975年に58歳でこの世を去る。後継者となった長男の春樹氏は、父の路線とは一線を画し、大胆な経営手腕を発揮する。 映画制作に乗り出し、自社の出版物と連動させる「メディアミックス」戦略で、『犬神家の一族』(1976年公開)、『人間の証明』(1977年)、『セーラー服と機関銃』(1981年)など、数々の大ヒットを連発。自ら製作総指揮に立ち、派手な言動でマスコミを賑わせ、出版界のスターとなった。 しかし、1993年8月、麻薬取締法違反で逮捕され、角川書店の社長の座を追われることになる。春樹氏の著書『わが闘争』(’05年刊・イースト・プレス)によれば、氏の獄中、弟・歴彦氏を“留守番”として社長に指名したが、出所後、経営から排除されたという。 歴彦氏は堅実な経営者として知られ、混乱した社内をまとめ上げた人物といわれている。社名を「KADOKAWA」に変え、’14年のドワンゴ統合やアニメ・ゲーム事業の拡大で、デジタル時代に対応した巨大メディアグループへと成長させた。 その間、兄弟の溝は深まるばかりだった。『わが闘争』によれば、’04年、母・照子氏の葬儀でも対立し、 〈歴彦とは決定的に決裂した。もはやきょうだいが仲良く、角川家がひとつになるということはありえなくなった〉 と記している。この確執の最終舞台といえるのが、家宝の「天秤棒」である。 源義氏の死後、社長室に保管された天秤棒は会社のシンボルとして創立記念式典で飾られた。しかし’04年、歴彦氏は天秤棒の管理を自身が関与する「角川文化振興財団」に委託。以後、財団が管理している。 ’23年9月、春樹氏は「角川文化振興財団」を相手取り、天秤棒の返還を求める訴訟を提起。根拠は、父・源義氏との「最期の約束」だった。それによると1975年、源義氏は癌で入院中の病室で、母・照子氏の前で春樹氏に、こう語ったと主張。 「自分が亡くなったら、春樹が天秤棒を大切に大切に持ち続けてもらいたい。天秤棒を見ては源三郎が築いた角川家の原点、その精神を常に思い出しなさい」(判決文より) ◆「何らの裏付けも存在しない」 春樹氏は、この発言が民法の「死因贈与」(贈与者の死亡を条件とする民法で規定された財産譲渡契約)に該当し、父の死で天秤棒の所有権を取得したと主張。また、天秤棒は祖先を祀る「祭具」であり、自身が「祭祀承継者」として継承すべきと訴えた。さらに、天秤棒が長期間、社長室に置かれていたことから「時効取得」(長期間ずっと自分のものとして使用していた場合、たとえ最初は自分のものでなくても、法律上その所有権が手に入るというルール)により、所有権は自分にあると論じた。 しかし、東京地裁は春樹氏の主張をすべて棄却。主張の核心である「死因贈与」については、「何らの裏付けも存在しない」と一蹴。裁判所は、照子氏の「看病日記」を根拠にこう判断した。 〈照子が同(編集部注:1975)年8月15日から同年10月27日までの源義の入院中の出来事を記した看病日記には、源義が原告(編集部注:春樹氏)に本件天秤棒を引き継ぐ旨を述べたという記載は存在しないところ(長文につき略)仮に、源義が原告に本件天秤棒を引き継ぐ旨を述べたという事実を照子が聞いたとすれば、その事実を照子が上記看病日記に記載しないということは考え難いというべきである〉(判決文より) つまり、看病で付き添った妻が、夫の重要な遺言を記録しないはずがない。日記に記載がない以上、春樹氏の供述は「採用できない」と結論づけられたのだ。 加えて、「祭具」の主張も退けられている。 〈源義は、角川家の家業ともいうべき角川書店の経営の励みとして、本件天秤棒を角川書店の事務所の社長室に保管していたのであって、そのような保管及び使用状況に照らせば、源義は、本件天秤棒を祖先の礼拝に供していたとは認め難い〉(判決文より) つまり裁判所は、源義氏が天秤棒を自宅ではなく社長室に保管していた事実を重視したというわけだ。天秤棒は宗教的な祭具ではなく、ビジネスの精神的支柱だったと判断。そして、「時効取得」についても、こう結論づけた。 〈原告は、本件天秤棒の占有権を共同相続したにすぎないのであって、原告が本件天秤棒を単独で自主占有していたとは認められない〉(判決文より) 春樹氏個人のものではなく、歴彦氏らを含む相続人の財産を、代表して預かっていたに過ぎない。単独所有でないため、時効取得は成立しないとした。 判決について、角川春樹事務所は「本件の取材はお断りします」と回答。一方、角川文化振興財団は、 「天秤棒は当財団でずっと保管をさせていただいてきたものですので、引き続き保管させていただきます」 とのこと。一本の古びた棒に込められた魂は、兄弟の骨肉の争いをどう思っているのだろうか──。

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