<創刊企画「大韓民国トリガー60」㉖>李厚洛の極秘訪朝…青酸カリカプセルがついた手に金日成が握手求めた

解放後の南北関係は反目と疾視、そして葛藤と競争の連続だった。一切の対話がなかった。韓半島(朝鮮半島)はまさに冷戦の表象だった。 1960年代末に入って条件が変わり始めた。ベトナム戦争、そして米国と中国の和解の動きなどで国際情勢は揺れ動いた。国内での権力強化が緊要だった南北の最高指導者はお互いを必要とした。こうした状況で南北の国家樹立後、初の当局間合意となる7・4南北共同声明が誕生した。国際・国内政治的な必要から作られた声明だが、これはその後の166件の南北合意書の開始点であり、「対話しながら対決する南北関係」への転換点となった。 北朝鮮は1960年に連邦制統一案を提示しながらも「南朝鮮革命」を追求する二重戦略で韓国を揺さぶった。1968年には青瓦台(チョンワデ、韓国大統領府)を奇襲したほか、米国の情報収集艦「プエブロ」を拿捕し、蔚珍(ウルチン)・三陟(サムチョク)に武装共産軍120人を浸透させた。南北間では対話どころか、軍事的な対峙が強まった。 互いに存在自体を否定する緊張と対立の一辺倒だった南北関係に反転が生じたのは1972年7月4日だった。午前10時、記者会見場のソウル東大門区里門洞(トンデムング・イムンドン)中央情報部(現国家情報院)大講堂に李厚洛(イ・フラク)中央情報部長が現れた。李厚洛は「最近、平壌(ピョンヤン)とソウルで、南北関係を改善して分断した祖国を統一する問題を協議するための会談があった」と口を開いた。自身と北朝鮮の朴成哲(パク・ソンチョル)第2副首相が秘密裏に平壌とソウルを行き来しながら交渉した結果に関する説明だった。李厚洛は「長く会っていなかった結果により生じた南北間の誤解と不信を解いて緊張を緩和し、さらに祖国統一を促進するために完全な見解の一致があった」と伝えた。そして自主・平和統一・民族大団結を骨子とする7項目の「7・4南北共同声明」を発表した。国民が「滅共統一」に慣れていた当時に出てきた発表だった。 その2年前の1970年、朴正熙(パク・ジョンヒ)大統領は8・15光復節(解放記念日)の演説で「南と北の体制のうちどちらが国民の福利を増進できるか、善意の競争をしよう」と提案した。南北が極限対立していた当時では突然のことだった。これには第1・2次経済開発5カ年計画の成果による自信が作用した。中央情報部は1969年、韓国の国民総生産(GNP)が66億2000万ドルと、北朝鮮(31億2000万ドル)の倍以上と分析した。 一方で米国は中国との対話を推進し、韓国に北朝鮮との対話を勧めた。1969年、リチャード・ニクソン大統領は「アジア諸国は自ら安全保障の責任を負うべき」というニクソン・ドクトリンを発表し、一方的に在韓米軍第7師団の兵力2万人余りを撤収させた。朴大統領にとって安保危機であり政治危機だった。1971年の大統領選挙での勝利を断言できない状況で突破口が必要だった。南北対話が局面転換用として適切だった。1970年の光復節演説が出てきた背景だ。 翌年、初めての南北赤十字会談が開かれた。1年後には特使が行き来した。李厚洛は1972年5月2日に休戦ラインを越え、スーツの上着に青酸カリカプセル2つを入れた。北朝鮮が逮捕したり監禁したりした場合には自殺するという意図だった。朴大統領も「第2次世界大戦当時、ナチスドイツのルドルフ・ヘスも和平条約を締結するために英国に単身潜行したが、英国は監獄に入れた。李部長はわが国の情報総責任者だ。そのような事態が発生すれば国家的な重大事になる」とし、李厚洛の北訪問を引き止めた。(金成珍、『朴正熙を語る』) ◆李厚洛、抑留に備え毒劇物持って北訪問 しかし北朝鮮訪問は決まった。朴大統領は「自信を持って対話に臨んで北が優位という幻想的意欲を失わせ、平和統一のための意見を交換しながら相手の思考および北の実情把握に重点を置くべき」と指示した。対話をしても競争で劣勢になってはいけないということだ。 李厚洛は平壌で金日成(キム・イルソン)主席の弟の金英柱(キム・ヨンジュ)組織指導部長に会ったが、進展はなかった。帰還予定を約10時間後に控えた5月4日0時ごろ、北朝鮮の当局者が眠っていた李厚洛の宿舎のドアを叩いて起こした。そして李厚洛を乗せた車はアスファルト道路から外れて非舗装道路に入った。李厚洛は青酸カリを手に握った。いざという時にはのみ込む覚悟だった。その瞬間、4階建ての建物が見えた。エレベーターに乗って上がると金日成がいた。緊張で汗が出たからか。握手を求める金日成に腕を伸ばした李厚洛の手に青酸カリのカプセルがついた。ポケットに手を入れてカプセルを手放してから握手に応じた。 2時間ほど続いた対話で金日成は在韓米軍の撤収、反共法の廃止などを主張しながらも、青瓦台襲撃事件については「申し訳なかった」と謝った。李厚洛は直通電話の開設と南北調節委員会の構成などを骨子とした共同声明の採択を要求し、金日成がこれを受け入れた。ただ、北朝鮮のナンバー2である金英柱のソウル答礼訪問は彼の持病のために実現しなかった。 5月末、北朝鮮の朴成哲副首相が韓国を訪れた。こうした過程を経て韓国は北朝鮮に共同声明の草案を送った。ちょうどその日は南北が戦争を始めてから22年となる1972年6月25日だった。2日後に平壌が修正した内容を送り返し、韓国側がまた修正して確定した。 李厚洛の平壌行きと共同声明推進を無理のある行動とみる声もある。当時の金成珍(キム・ソンジン)青瓦台公報首席秘書官は「李厚洛が平壌に潜行した本当の目的が英雄心のほかに何があったのかまだ疑問」と回顧した。当時の金鍾泌(キム・ジョンピル)首相も同年11月にフィリップ・ハビブ駐韓米国大使と会い、「李厚洛が個人的威信のために交渉を急いだ」と話した。 朴正熙は共同声明発表2日後にソウルを訪れたグリーン米国務次官補に会い「北が対話に応じると信じるほどの行動や前向きな意図とは解釈していない」とし「北はすぐに首脳会談を開催することを提案したが、今は難しい政治問題を議論する時ではなく容易な問題から議論しようという立場」と説明した。対話を始めたが、依然として対決に傍点が打たれていた。 南北は当初の目的の一つだった国内政治にも声明を利用した。共同声明の数カ月後、朴正熙は10月に維新を発表した一方、北朝鮮は同年12月に憲法を改正して主席制を導入し、金日成唯一体制をより一層強化した。双方とも「南北対話を継続するには体制の安定が必要だ」という理由を挙げた。 ◆アウンサンテロ2年後に南北故郷訪問団 統一を期待した雰囲気は南北の同床異夢のため長くは続かなかった。共同声明履行のために南北は6回の調節委員会を開いたが、1973年の金大中(キム・デジュン)拉致事件を理由に北朝鮮が一方的に会議を中断した。翌年の光復節記念式で文世光(ムン・セグァン)の銃撃で大統領夫人の陸英修(ユク・ヨンス)氏が逝去し、南北関係はふさがった。その後、南北関係はジェットコースターのように激しく動いた。北朝鮮は1983年、全斗煥(チョン・ドゥファン)大統領の命を狙ってビルマ(ミャンマー)アウンサン廟を爆破(ラングーン事件)したが、2年後には南北離散家族が故郷訪問団を作ってソウルと平壌を行き来した。ソウルオリンピック(五輪)を控えた1987年11月には大韓航空858機を爆破し、1991年には南北を「平和的統一を目指す過程の特殊関係」と規定し、もう一つの転機を作った基本合意書に署名した。 1994年6月にはジミー・カーター元米大統領が平壌を訪問し、南北首脳会談を取り持った。同年7月25‐27日に平壌で金泳三(キム・ヨンサム)大統領と金日成主席が会うことにしたが、金日成が7月8日に死去して会談は実現しなかった。トランプ米大統領は先月25日、李在明(イ・ジェミョン)大統領と首脳会談で「今年中に金正恩委員長と会いたい」と明らかにした。米国が南北関係改善の圧力を加えて緊張緩和を追求した1970年前後の国内外の状況を連想させる。 7・4南北共同声明の推進の背景と過程をめぐる議論は絶えず続く。しかし対決と緊張の一辺倒だった南北関係に対話と協力の雰囲気を作る転換点になったという点は否認しがたい。金正恩国務委員長が南北関係を「交戦中の敵対関係」と規定しているが、結局、南も北も敵対的であっても共存関係であることは否定できない。それが7・4共同声明の遺産だ。 チョン・ヨンス/統一文化研究所長/論説委員

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