『ぼくほし』健治の決断を後押ししたもの 優しさと自己犠牲に込められたメッセージ

9月15日に放送された『僕達はまだその星の校則を知らない』(カンテレ・フジテレビ系)第10話では、健治(磯村勇斗)が生徒のために一大決心をした。 元生徒会副会長の斎藤(南琴奈)が大麻所持の容疑で逮捕された。幼なじみの小椋(本島純政)から、渡すように預かった紙袋の中身は違法薬物で、斎藤にも嫌疑がかかった。斎藤は少年鑑別所で身柄を拘束され、家裁で保護処分が下されれば、前歴として記録に残る。学校に来ない斎藤を、鷹野(日高由起刀)や天文部の生徒は心配しはじめる。 第10話のタイトルは「さようなら、スクールロイヤー」で、予告映像で健治がスクールロイヤーをやめると知って、「一体何が?」と思った視聴者も多くいただろう。山田(平岩紙)や健治は斎藤を信じるが、学校は静観の構えで、長引けば斎藤が自主退学を促されることも考えられた。斎藤の弁護士は消極的な姿勢で、母親(遊井亮子)は健治に付添人を依頼するが……。 第10話では、スクールロイヤーの立場の難しさを、具体的な事件を通して浮き彫りにした。スクールロイヤーは、契約に基づいて学校の業務を行う。もし健治が斎藤の代理人になれば、学校と対立する立場になるので、潜在的に利益相反となり、弁護士倫理に反する。久留島(市川実和子)が「ありえない」と言うのは、そういう意味だ。 ふつうに考えたら仕方ないと諦めると思うが、健治はそうしなかった。健治の決断は、これまでの振る舞いを考えたら、当然そうなるという必然性があり、健治は悩んだ末に決断をくだすのだが、今作が伝えようとすることのエッセンスが凝縮されているようだった。 宮沢賢治の『よだかの星』や『銀河鉄道の夜』が引用される今作の精神を、「優しさ」や「自己犠牲」といった言葉で形容することは比較的容易である。それらが尊くて汚れのない行為であることは、あえて説明を要しない。ただし、その献身を誰もが共有し、胸の奥からあたためる炎として実質を持たせることができるかは、ひとえにそれが真心から出た、やむにやまれない思いであることが必要だ。 何かを犠牲にすることがただ犠牲になることではなくて、そうする以外にない。そこに苦しみをともなう切実さがあって、証明する以外に方法がない。それでも、そうすることに意味があると言えるような、誰かの幸いを願う心。自分も他人も同じように天秤にかけて、その上で重りを少しだけ相手の方に傾ける。そんな“優しさ”であり、同じ宇宙の下で、生きとし生けるものがつながっている感覚が、健治の決断を後押ししたと考える。 「悲しまないでください。どこにいても、星は変わらずそこにあるし、僕も必ずその星を見ていますから」 健治を支えたのは、珠々(堀田真由)の笑顔や天文部の生徒たちとの絆であり、高校に行けなかった健治の心に、彼らと過ごした時間は最高の思い出として残ったはずだ。 健治の尽力で斎藤は不処分となり、結果的に、濱ソラリス高校も不名誉を免れた。尾碕(稲垣吾郎)は健治に感謝する。2人の間で交わされた言葉が印象的だ。「身を削って生徒を救うことができて満足ですか?」と尾碕に問われた健治は、「はい」と笑顔で返す。皮肉まじりに響いた尾碕の言葉は、もしかすると、尾碕自身が願っていたことかもしれない。尾碕には学校を守る責任があり、一人のために尽くすことは許されない。真摯で誠実な社会科教師だった尾碕の本心は、最終話で明かされることだろう。 山田が学校を相手取って起こす訴訟で、健治は学校側と対立することになる。第1話の模擬法廷の再来を思わせる法廷の場面もあるようだ。今作が伝えようとするメッセージを、しっかりと受け止めたい。

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