昭和47年2月、長野県軽井沢町で発生した過激派、連合赤軍による「あさま山荘事件」で人質だった牟田泰子さんが13日、老衰のため85歳で死去した。10日間の監禁を耐え抜いた牟田さんは、犯人たちに発砲をやめるよう諭すなど気丈な面も見せていた。 ■国外逃亡…終わらない事件 事件では警察官2人と民間人1人が銃撃で死亡した。その後、悲惨な仲間殺しも明らかになった。 犯行グループは、死刑が確定した坂口弘死刑囚▽クアラルンプール事件の「超法規的措置」で出国し、国外逃亡中の坂東国男容疑者▽無期懲役が確定した吉野雅邦受刑者▽当時19歳で、出所して実名を明かした加藤倫教氏▽加藤氏の16歳の弟で、少年院を退院した「少年B」-の5人。 坂東容疑者の逮捕まで坂口死刑囚の刑は執行されないとみられ、事件の司法手続きは終わっていない。 ■「私を盾にしてでも外に出て」 坂口死刑囚は著書「あさま山荘1972」でこんなエピソードを紹介している。 立てこもり2日目の2月20日、坂口死刑囚が炊いたご飯を少年Bがすぐにしゃもじでよそおうとした。それを見た牟田さんは「ご飯は少しそのままにしておいたほうが、おいしいよ」とたしなめた。 Bは素直に従い、ご飯が蒸れるのをじっと待った。「もういいでしょう」と牟田さんが言うと、勢いよくかき込んだという。 28日に機動隊が突入。警視庁第2機動隊長の内田尚孝警視長(警視から特進)が撃たれて死亡した。ラジオから「内田警視が撃たれました。重体です」という声が流れると、牟田さんは叫んだ。 「銃を発砲しないでください。人を殺したりしないでください。私を盾にしてでも外に出て行ってください!」 坂口死刑囚は「出られない」と答えて抵抗を続けた。 ■警察官死亡「申し訳ない」 牟田さんは、救出直後はメディアの取材に答えたものの、その後はひっそりと警察官の慰霊を続け、別の保養所の管理人を定年まで務めた。 令和4年2月、長い沈黙を破って信濃毎日新聞の取材に応じた。警察官2人が死亡したことに「今も申し訳ない気持ち」と語った。