2023年に亡くなられた元西鉄ライオンズの中西太さん。このたび怪童と呼ばれた中西さんの伝説、そして知られざる素顔を綴る一冊が発売されました。 書籍化の際の新たなる取材者は吉田義男さん、米田哲也さん、権藤博さん、王貞治さん、辻恭彦さん、若松勉さん、真弓明信さん、新井宏昌さん、香坂英典さん、栗山英樹さん、大久保博元さん、田口壮さん、岩村明憲さんです。 今回も再び近鉄コーチ時代の話です。(一部略)。 仰木近鉄初年度1988年途中、主軸のリチャード・デービスが大麻所持で逮捕され、退団。急きょ代わりに獲った外国人選手が中日のラルフ・ブライアントだった。この年、中日に入団も外国人枠の問題で二軍にいたが、一軍に上がれば十分やっていけるという情報があった選手だ。 中日出身の権藤博コーチが古巣と話をつなぎ、仰木彬監督と中西でウエスタンのゲームを視察。極端なアッパースイングで粗さはあったが、その長打力は魅力だった。 中西は仰木監督に「獲れ。わしが直す」と言った。 「力任せで三振の多い選手だったが、わしは日本で活躍するにはバットコントロールが大事という話をし、細いバットを使ってシャープなスイングの練習をさせたり、ティーバッティングでもいろいろな角度から速い球、遅い球を投げた。長いときは40分くらいかな。トスを上げていると、それが会話になるんや。 正面近くからも投げるから、打球が体や顔に当たったこともしょっちゅう。でも、それで信頼が生まれる。大変だったと思うが、日本で活躍しようというハングリーさがあったからよう頑張ったよ。よくあいつに『辛抱じゃ』と日本語で言っていたら、あとで成功の秘訣を聞かれ、『シンボウ』と答えたらしいね」 中西は、ブライアントが打撃練習でオーバーフェンスをすると「マネー!」と叫んだ。「試合でもオーバーフェンスをすればおカネになるぞ」ということだ。これも得意のベースボールイングリッシュである。 「シーズンに入って、あいつが弱点を突かれて悩んでいたとき、わしはそんなこと気にするなと言った。『お前には一発がある。ピッチャーはそれを怖がっているんや。なのに三振を怖がってスイングが小さくなっても仕方がないじゃろ』ってな」 ブライアントは言う。 「中西さんは選手のすべてを変えようとはしない。その選手の欠点だけを指摘してくれる。僕の場合は右肩が開かないことと、アッパースイングにならないよう心掛けるように言われた。中西さんはエルギーにあふれていた。大きな声でもり立てるから、近くにいるとすぐ分かるんだ」 ブライアントは途中入団の1988年から大活躍。近鉄もまた快進撃を見せ、最後、伝説の「10・19」で力尽きたが、優勝にあと一歩まで迫った。 日本中を熱狂させた川崎球場でのロッテ戦ダブルヘッダー。ベンチで選手とともに喜怒哀楽を見せ、タイムリーで生還した鈴木貴久と抱き合ってグラウンドを転げ回った中西の姿は、今も近鉄ファンだけでなく、多くの野球ファンの記憶に残っているはずだ。 翌1989年には10月12日、大一番の西武戦ダブルヘッダー(西武)でのブライアントの4連発(4打数連続本塁打)もあって近鉄はリーグ優勝。2年がかりの劇的なドラマを完結させた。 ほかにも金村義明、村上隆行、大島公一ら中西との出会いで大きく成長した近鉄の選手は数多い。不思議なのは、近鉄時代だけではなく、ヤクルト時代、阪神時代、少しあとで書いていくオリックス時代もそうだが、同時期にいた複数の選手たちが中西とのマンツーマンの思い出を語っていることだ。 いくら熱心でも体は一つ。どうやっていたのか。 「いつも全体を見ていた。それで、要所で声を掛ける。だから『あの人はいつも自分を見ているんだ』になる。逆に選手も見ているよな。わしがティーバッティングでボールを体に当てたり、選手と一緒に汗をかき、泥にまみれてやっているのを。だから偉そうなことは言う必要はないんや。そうやって一生懸命やっていけば、ああ、この人は言葉だけじゃないとなるしね」 さらに言えば、トスの上げ方、アドバイスはすべてその選手に合わせて行い、情熱は分け隔てなく、常に全身全霊だった。