「本当にスラム化」「ここは日本なのか」……大混乱の「西成暴動」で元署員が見た怒号・投石・放火の現場

「日本三大ドヤ街」の一つで、全国最大の日雇い労働市場があると言われる大阪市西成区の釜ケ崎。これまで、労働者たちによる暴動が繰り返し行われ、「治安が悪い」イメージを持たれることも多い。お笑いタレントの千原ジュニア氏も、1990年の22次暴動に遭遇したことがあると、自身のYouTubeで発言している。 その22次暴動の取り締まりに当たった元西成署員の話を聞いた。書籍『西成DEEPインサイド』(朝日新聞出版)より一部を抜粋・編集してお届けする。 * * * 行政や警察への不信感、仕事にあぶれた不満、劣悪な労働環境、横暴な手配師……。 24回にわたる西成暴動には、様々な背景があり、何かが引き金となって一気に爆発する形で起きてきた。 特に規模が大きかったとされるのは1次(1961年8月)と22次(90 年10月)。「暴動はもう起きないだろう」と言われていた中で起きた22次は、6日間続いた。 「本当にスラム化してしまい、ここは日本なのかという感じ。大混乱でしばらく手のつけようがなかった」 そう語るのは、22次の取り締まりにあたった元西成署員だ。 現在は高いフェンスで囲われ、「要塞(ようさい)」とも言われる西成署。当時は要塞化される前だった。 その日は10月2日で、異動の内示の日。近くで送別会も行っていたところ、署の前に人だかりができ始めた。帰った署員にもポケベルで呼び出しがかかった。 「暴力団から金もらいやがって」。怒号が飛び、群衆はどんどん増えていった。 この日、マスコミがこんなニュースを報じていた。 捜査情報を流した見返りに暴力団組長から現金を受け取ったとして、西成署の巡査長に対する任意聴取が始まった――。 10月3日夜、巡査長は収賄容疑、組長らは贈賄容疑で逮捕された。 もともと日雇い労働者には上前をはねる暴力団への不満があった。暴力団からの現金受領で警察への信頼は地に落ちた。 元署員は「警察が労働者を抑え込んでまちの治安を保っていた面があったが、身内の不祥事によりコントロールできなくなった。暴動の機会を与えてしまった」と話す。

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