アフガン人は強制送還、もしくは⋯イランに逃れた難民を待つ「残酷すぎる二択」の運命とは

この夏、アフガニスタン西部ヘラート州とイラン北東部ラザビー・ホラーサーン州を隔てるイスラム・カラの国境検問所が地獄の様相を呈している。イラン政府がアフガニスタン難民の大規模な強制排除・送還に乗り出したからだ。 7月の酷暑の中、イランの警備隊は病院から患者を引きずり出し、子供を私設学校から連れ去り、建設現場などで働く男たちには片っ端から手錠をかけ、無理やり国境の向こうへ追いやっていた。 国連の推計によれば、この夏のわずか16日間でイランからアフガニスタンに強制送還された難民は約50万人以上。しかもこの数は増え続けており、強制送還された人は今年だけで約150万人に上るとされる。 イラン政府は7月6日を期限に、不法滞在している約400万のアフガニスタン難民を国外追放するとの目標を掲げていた。史上まれに見る規模の強制送還については、6月のイスラエルとイランの交戦の影響も指摘されるが、実はこうした迫害は40年以上前から続いている。 イランからヘラート州に強制送還された人々の中には、イランで生まれ育った人もいる。最初のアフガニスタン難民は1979年のソ連軍侵攻を機にイランへ逃れた人々で、その2世・3世は一度もアフガニスタンに足を踏み入れたことがない。 他方、ヘラートを知り尽くした難民もいる。アフガニスタンの旧政権関係者だ。彼らは21世紀になって侵攻してきた米軍と協力して、イスラム主義勢力のタリバンと戦ってきた。しかし今のヘラートはタリバン政権の支配下にある。 そのタリバン政権は厳しい「ジェンダー・アパルトヘイト(性別を理由とした隔離・差別)」政策を実施しているから、そもそも女性にとっては生きづらい場所だ。 アフガニスタンとイランは文化・言語・歴史の面で数千年にわたる強いつながりを有している。多くのアフガニスタン人は、イラン人と同じくペルシャ語を話す。またアフガニスタン人の一部、特にハザラ人はイラン人と同様にイスラム教シーア派に属している。 だが現代のイランにおいて、アフガニスタン難民は異質な存在、異分子と見なされている。イランの現代史を振り返ると、イラン社会は一貫してアフガニスタン人を「よそ者」扱いしてきた。 彼らはまともな人間扱いをされず、イランのいくつかの州では居住すら許されなかった。政府による差別のみならず、偏見はイラン国民の間にも浸透し、中には露骨に「アフガニスタン人お断り」という張り紙を掲げた商店もある。 アフガニスタン人を人間扱いしない風潮はイラン社会の隅々にまで広がり、黙認され、アフガニスタン難民への搾取、虐待につながっている。 90年代に東部ファリマンの悪名高い難民収容キャンプに放り込まれ生き残ったユネス・ヘイダリは、イラン警察からの過酷な仕打ちを克明に記録し、『鉛の日々』と題する本にまとめた。法的根拠もなく拘束され、バスに乗せられ、隔離されたキャンプで屈辱的な扱いや苛烈な拷問を受けたことがつづられている。 イランでのアフガニスタン難民に対する長年の虐待の実態を明かした同書が出版されたのは90年代だが、難民・移民に対する法的枠組みや当局の対応は今も改善されず、放置されたままだ。ヘイダリの悲惨な体験は、そのまま現在のアフガニスタン難民のそれに重なる。 79年のソ連軍侵攻を機に内戦が始まると、数百万のアフガニスタン人が豊かな産油国イランに逃げ込んだ。その後のアフガニスタンで半世紀近くも政情不安が続いているのは周知のとおりだ。 この間、イランは常に重要な当事国として立ち回り、ソ連に抵抗するアフガニスタン人を支援した時期もある。内戦中はアフガニスタン国内の特定勢力を支援した。2021年にはタリバンの進軍を後方支援し、国際社会の承認するアフガニスタン政府を崩壊に追い込んだ。 ちなみに、この時も120万人近いアフガニスタン人が祖国を捨ててイラン側に脱出している。国内で安定した暮らしを望めない彼らから見れば、隣国イランはそれなりに平穏な場所で、どうにか生計を立てられそうに思えたからだ。

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