「元国事犯」。そんな103歳の男性が、北海道旭川市の高齢者施設に入居している。同市の法律事務所に勤める平山沙織さん(55)は、男性をほぼ毎週訪ねる。近況について「『国会請願、今年は欠席したが来年は上京するぞ』と元気です」と教えてくれた。体調に気を使うが、意気軒高だという。 男性は、菱谷良一さん。1941年1月、旭川師範学校(現・北海道教育大旭川校)の美術教師検挙に端を発する「生活図画事件」で逮捕された一人だ。 寝そべって本を読み語り合う学生たち。そんな日常生活を描く活動を、特高警察は反体制的と見なした。治安維持法違反で教師の同僚、教え子など20人以上が逮捕され、学生だった菱谷さんは1年3カ月に及ぶ勾留の後、執行猶予付きの有罪判決を受けた。 2人が知り合ったのは2014年9月。平山さんがメンバーになっている「あさひかわ西地域九条の会」が開いた戦争体験を語る会に、菱谷さんを招いたのがきっかけだった。 平山さんは「治安維持法犠牲者国家賠償要求同盟」(本部・東京)が毎年実施する国会請願に、一緒に参加するようになった。 その平山さんは言う。「実は私の祖父も、治安維持法違反で逮捕されたことがあります。『(警察の取り調べで)火鉢の上に乗せられた』が口癖でした」 ◆ ◆ 平山さんは祖父が亡くなったとき高校生で、過去の体験を詳しく聞いていない。「随筆集が残されましたが、ある項目の表題に『拷問』とあり、怖くて開けませんでした」 やがて平和運動に取り組むようになり、15年ほど前に目を通して衝撃を受けた。 祖父・菊池邦作さんは労農運動の活動家として、群馬県で小作人解放などの人権問題に取り組んでいた。「それを国家は秩序を乱すと断じ、許さなかった」。逮捕は32年から計8回に及んだ。 随筆に、拷問の様子が描かれていた。火鉢の上に三角棒が渡され、前橋警察署の取調官はその上に正座させて膝に重しを載せた。お前は共産党員だろっ、と詰問。否定すると容赦なく背中を木刀でたたいた。上向けにし、鼻、口からの水責めでさいなんだ。失神し、気がつくと血便、血尿にまみれていた――。 絶え間のない肉体的苦痛と精神的屈辱。「悪法もまた法なり、といいますが、人権を踏みにじることが法の役割なのでしょうか」 ◆ ◆ 「終戦」となっても、治安維持法は残っていた。 45年9月26日、哲学者の三木清が豊多摩刑務所(東京都中野区)で衰弱して獄死。「天下の悪法」が機能していたと知った連合国軍総司令部(GHQ)は驚く。菊池さんは同じ月、GHQに「日本軍国主義の払拭(ふっしょく)」と題した意見書を出し、同法廃止を訴えていた。 GHQの指令を受け、同法が廃止されたのは10月15日だった。 戦争は突然起きるのではなく、国家が平時の法整備を通して国民を戦争に向かわせる。平山さんはそう実感している。 「菱谷さんは普通の学生でした。逮捕されるまで、『俺には治安維持法は関係ない』と思っていたそうです。祖父からも、もっと聞いていれば良かった」。その後悔を胸に、活動を続ける。 ◆ ◆ 治安維持法の象徴的存在だった豊多摩刑務所の敷地の一部は、「平和の森公園」に姿を変えた。唯一の建物遺構は、レンガ造りの正門。ここをくぐり、二度と出られなかった人は数多い。中野区は平和を誓う「証人」として移転保存を決定。7月下旬、本格工事が始まった。【高橋昌紀】 ◇治安維持法 1925年に「国体護持」を目的に制定され、28年に一部、41年には全面改正された。違反の最高刑は死刑。当初の対象は主に共産主義者だったが、社会運動家、宗教家、学者、芸術家など無制限に拡大し、数十万人が検挙された。1600人以上が拷問死・獄中死したとみられる。