裸一貫で渡米し、世界で愛されるヨシダグルメソースを作り上げた吉田潤喜氏は、戦後数少ない唯一のアメリカンドリームを実現した成功者のひとりと捉えられる。同氏の人生を振り返りつつ、日本の若いビジネスパーソンに向けたアドバイスをいただいた。 ■東京オリンピックの感動を胸に日本を脱出 「アメリカ生まれの日本のおふくろの味」として世界に愛される「ヨシダソース」を創業した、実業家の吉田潤喜氏。吉田氏は1949年に京都で生まれ、75歳となったいまも現役でビジネスの最前線に立っている。その人生はまさに波瀾万丈という言葉がふさわしい。 吉田氏は、「私は落ちこぼれで、4歳の時に右目を事故で失明し、いじめられた経験から反抗心が芽生えました。日本のジメジメした環境に反発していたんです。京都では名前が知られた“ごんたくれ”(困った人/乱暴者/いたずらっ子)で、ケンカ、ケンカの毎日でね。空手を習ったのも、単純にケンカに強くなるためでした」と日本での幼少期を振り返る。 世の中に対し「こんちくしょう!! いまに見とれ!!」という思いで毎日を過ごすなか、転機となったのが、1964年の東京オリンピックだ。 「大学受験も失敗し、このままでは日本にいたら間違った道に行くだろうなと思いました。そんなとき、1964年の東京オリンピックでアメリカ国歌を聞いて感動したんです。なんか胸がジーンとするんだよね。ということで、とにかく日本を出ようと思ったんです。それしか考えてなくて、不安とかはなかったね」(吉田氏) 英語もほとんど話せないまま、とにかく日本を脱出したいという思いだけでアメリカに渡ることを決意した吉田氏。飛行機の中でスチュワーデス(現在はフライトアテンダント)が話しかけてくるのが怖くて、10時間半のフライト中、ずっと毛布を被って寝たふりをしていたそうだ。 こうして吉田氏は1968年にアメリカ・シアトルに到着する。「もう絶対泣かない」「もう日本には帰らない」という覚悟で日本を脱出したが、飛行機が着陸した瞬間には涙が出て止まらなかったという。 「不安の涙じゃ無いんだよね。この国で自分の一生を賭けるという気持ちでした。なにを賭けるかといったらなにもなかったんだけど、漠然とね。当時、国際航空券は世界中どこでも現金に換えられたので、帰りの航空券を現金にして、そのお金で750ドルの中古車を買いました。車で寝泊まりするためです」(吉田氏) 当時のアメリカはベトナム戦争の真っ最中で、ヒッピー文化が隆盛していた。社会は乱れていたが、それでも日本とはまったく異なる自由があったという。 「いまでも日本に行くと、なんでもルールで決められた管理社会だと感じます。それが日本の美しいところでもありますが、マナーを守ることが重視され『出る杭は打たれる』国だよね」(吉田氏)