ブラジル日系社会=『百年の水流』(再改定版)=外山脩=(231)

十四章 大騒乱 (Ⅳ) この章では、前章『面目、丸潰れ』の項で先送りした連続襲撃事件に関する資料の内容を掘り下げる。 資料とは、その折記したパウリスタ新聞刊『コロニア戦後十年史』、『ブラジル日本移民八十年史』(同名編纂委員会編)である。 以下前者は十年史、後者は八十年史と表記する。 この二書物は、今日では貴重な資料となっており、筆者も取材の手掛かりを得る上で、随分と利用させて貰った。 従って、アレコレ批判するのは気が引けるが、内容は残念ながら首を横に振らざるを得ない部分が多い。 というのは、先ず何れも通説、認識派史観のみで全体を構成しており、戦勝派の史観を全く取り上げていない。 十年史の場合、パウリスタ新聞の編集幹部が戦勝派を毛嫌いし、新聞紙面でもその取材原稿は、一切採用しなかったというから、その影響であろう。 八十年史の場合は、毛嫌いしていたわけではなかろうが、執筆者が戦勝派への接近を怠っていた節がある。 次に、内容は殆どがポルトガル語の新聞記事、それを使って作成された襲撃事件のリスタ、DOPSの供述調書に頼っており、自身で調査・取材をしていない。 しかし、既述したことだが、当時のポ語新聞の記事は正確さに問題があった。 またDOPSの調書は、あくまで警察側の観方である。これだけを基に判断するのは、裁判官が原告の主張のみを聴いて被告の言い分を訊かず、判決を下す様なものである。 血の旋風を巻き 起こした男⁉ ポ語新聞の記事が正確さに問題があった事例を幾つか紹介する。━━ 十年史の『テロ行動の全貌』(12頁以降)の中に、一九四六年の八、十月にノロエステ線ビリグイ方面で起きた二件の銃撃戦についての記述がある。 敗戦派と警官隊が戦勝派と撃ち合った事件である。 これについては、前章で触れたが、十年史は、両事件の戦勝派の首領は松家元祐という男であったとして、かなりの行数をさいている。 以下は、その内容である。読み易い様に、行替えや句読点の打ち方を一部変えたり、漢字は旧字体を新字体にする等の修正をした。 「八月中旬、ブラウーナ付近リオ・フェイオ沿岸の森林中に集合、密議していた日本人の一団が、ペナポリス郡内警戒中の警兵及び刑事に包囲され銃火を交えた揚句、負傷一名を遺棄して逃亡した。 この事件は『遂に直接警察を敵にす』『日伯戦争』などのセンセーショナルな大見出しで新聞で報道され、一般に衝撃を与えた。が、十月十日に至り、この一団の首魁をはじめ殆ど全員の検挙をみた。 七月から八月にかけてノロエステ全線に『血の旋風』を巻き起こしたのは、この一団ではないか…との見込みのもとに追及を行ったところ、次のことが判明した。 一団はグリセリオ町居住の松家元祐を首領とする過激な連中で、松家は臣道連盟のテロ団結成に際して、同地方の指導者に推された。 松家は自分は陸軍中佐だといいふらし、所在の狂信分子を糾合すると共に、これをゲリラ的に組織した。 この男の考えによれば、 『比較的多数の非国民を抹殺するには、いわゆる一人一殺主義では、その都度弾圧を蒙って目的を達せられない。 目的遂行には、集団による一斉襲撃のほかない。万一失敗したらゲリラ戦術の原則に従って一団を解散し、至る所にある同士の庇護を得て再起を図るのが最も当を得た戦法である』 という危険極まりないものだった。 七月十六日以降ノロエステ線沿線で連日のように惨劇が起こったのは、すべて松家の指揮によるものだったのである。 この一団は認識者襲撃の都度、ゲリラ戦の要領で巧みに集散離合を図りながら、暗躍を続けていたところを、前記の様にリオ・フェイオの沿岸の森林中で捕捉された。 それ以後は負傷者を抱えて行動の自由を失い、遂に九月下旬、負傷者治療のため、ペナポリス市に潜入した。その連絡場所がブラウーナ付近サン・マルチーニョの鉄矢次郎宅であることを警察に探知された。 十月一日、警察隊はサン・マルチーニョに向かったが、この衝突でも松家部隊は死体一を残して逃走した。死体は特攻隊員章の日の丸を所持、隊員番号一〇〇三九号で島野波次と判明した。 これ以後、検挙網は次第に狭められ、十日目には鉄矢運良、松家元祐、入谷モリノブ、長城パウロ、大原ヒトシ、長城一郎、大場喜平、鉄矢次郎ら八名の逮捕をみた」 (註=この十年史では、松家の名は元祐となっているが、移民船の乗船者名簿によると松家元助である。島野波次は嶋野並路である。乗船者名簿は、戸籍を転記している)

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