広島転勤断念で命拾い 巣鴨プリズンを出て首相になった男の「強運」

1977(昭和52)年4月に月刊『文藝春秋』の契約取材記者になって初めて遭遇した大掛かりな企画テーマは、77年11月号と78年7月号に全2回で掲載された岸信介元首相の人物研究の長篇記事だった。その取材で、78年5月に岸さんを初めてインタビューした。 60年まで首相を務め、在任中に日米安全保障条約改定を成し遂げた岸さんに、戦後の出発点の45年8月15日、どこで何をしていたのか、質問した。岸さんは一言、漏らした。 「直前に猩紅(しょうこう)熱にかかって、郷里の山口県の自宅で寝とったんですよ。終戦の放送のときは、病床でね。その後、治りかけていた9月12日、僕の逮捕状が出たということを正午のラジオのニュースで聞いた」 日米開戦の41年12月、東条英機内閣の商工相だった岸さんは、44年7月の内閣崩壊で閣外に出て郷里に戻った。戦後、A級戦犯容疑で逮捕されたが、後に不起訴で釈放された。 敗戦の2カ月前の45年6月、同郷で鈴木貫太郎内閣の内務大臣だった安倍源基氏が、岸さんに電話をかけてきた。当時、政府は本土決戦を目前にして、地域ごとの行政の強化が必要と強く認識し、各都道府県の上の統括官庁として全国8カ所の地方総監府の新設を決めた。岸さんがインタビューで明かした。 「あのときは座骨神経痛を患って山口県の俵山温泉へ湯治に行っていた。そこへ電話が入った。『何か一つ引き受けてくれないか』と頼まれた。『そりゃあ、やらなきゃいかんが、場所について希望がある。山口県を管理する広島で』と答えた。安倍君は『広島だけは決めたばかりだ』と言う。『広島なら引き受けるが、ほかは勘弁してくれ』と返事した。人間って分からないもんだね。それで広島に行った人が原爆で死んでんだから」 2カ月後の8月6日、広島への原爆投下で、中国地方総監となった大塚維精氏(元広島県知事)は被爆死した。岸さんは命拾いした。まれに見る強運の人である。戦後も公職追放解除後、政界復帰を遂げ、敗戦から11年半後に首相に登り詰めて「不死鳥」と称された(以上、2025年7月刊行の拙著『戦後80年の取材証言』の「第1項・開戦と敗戦」参照)。

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