■名家・岩倉公爵家に生まれるも、不遇の人生をおくる 戦前日本の特権階級・華族。しかし「皇室の藩屏」ともいわれた華族の威厳を保つにはそれなりの財産が必要でした。ところが「元勲」の代表格と謳われた岩倉具視を曽祖父にもつ公爵令嬢・岩倉靖子の人生は貧苦の中ではじまっていたのです。 靖子の父・岩倉具張公爵が一攫千金を夢見て、鉄道用地買収にまつわる「地面師詐欺」にあっていたのです。そして背負わされたのが当時の額面で「300万円」、現在の価値で90億円(!)という巨額の借金でした。しかも具張は家族を捨て、愛人の芸者と蒸発していたのです。 昭和2年(1927年)、靖子の兄・具栄が内務省の社会局労働課に就職を果たしたのですが、それは無給嘱託の扱いでした。つまり仕事はあるけど、給料はゼロということです。 この年、靖子は女子学習院から日本女子大学付属高等女学校に転校しました。女子学習院にはいづらくなった靖子の気持ちはよくわかりますね。そして昭和5年(1930年)、靖子は日本女子大英文科に進学するのですが、そこで熱心な共産主義者となった末に2年で退学。 昭和7年(1932年)には共産党のシンパ養成組織である社交クラブ「五月会」を結成。女子学習院からの友人で親戚でもある上村春子や、上村が結婚する司法官僚・横田雄俊とともに、華族やブルジョワ出身の女性たちを共産党にオルグしようと(=組織化しようと)活動開始したのでした。 しかし開始早々に、横田雄俊が名古屋地方裁判所に転勤することになり、上村も彼と結婚して名古屋赴任に付き従うことになったため、靖子は一人ぼっちで東京に取り残されたのでした。靖子は具体的な成果などほとんどあげられないままでしたが、それでも彼女たちがしようとしていたことは、大正14年(1925年)に制定された「治安維持法」によって非合法とされた危険な行為だったのです。 特高警察による上流階級の学生を中心とした「共産主義者狩り」が始まったのは昭和8年(1933年)のこと。この年の3月下旬から9月中旬までの約半年で、靖子など華族の子弟たち10名を含む多数の関係者が捕縛され、上流階級の「赤化」は世間を騒がせました。 しかし、逮捕された華族の子弟たちの大半はすぐに「改悛」したそうです。早い場合は1週間、平均して1~2ヶ月もすれば「社会主義活動は間違いだった」と認め、反省文を書いて、獄中から去っていきました。 特高といえば、拷問を思い出すかもしれませんが、親兄妹を総動員し、とくに母親による「泣き落とし」の作戦は逮捕者を大きく揺さぶるので、暴力以上にスピード転向が可能だったようです。 しかし岩倉靖子は絶対に社会主義活動を捨てようとしなかったので、起訴までされています。彼女のほかに転向しなかった華族は、「ザーリア」という勉強会を主催していた八條隆孟と森俊守の2名。女性では靖子だけでした。 彼女が8ヶ月以上もの長期間、思想転向を迫られても陥落しようとしなかったのは、他の華族たちのような「太い」実家がない自分が戻れる場所は、社会主義活動の中だけと考えていたからではないでしょうか……。 しかしさすがの靖子も(すでに内務省から帝室林野局に転出し、今は給料をもらって働いていた)兄が、妹が社会主義者になったことで退職せざるをえなくなったことや、「五月会」をともに立ち上げたメンバーの横田雄俊が転向したと聞き、ついに思想転向を受け入れるのでした。 12月11日に釈放された後は実家で静養していたものの、靖子の頭の中は、22日に控えていた予審のことでいっぱいだったはずです。予審とは本裁判(公判)に先立ち、裁判官が証拠を調べ、起訴事実の有無を確認して本当に裁判で裁くべきかを判断する手続きを指します。ナーバスになっていた彼女に、他家に嫁いだ姉たちが冷たく当たったという話もありますね。自分のせいで、岩倉家から公爵位が剥奪されるのではないかという恐れと戦っていた靖子にとって、身内の冷視線はひときわ応えたはずです。 予審の結果が申し渡される22日を翌日に控えた21日朝、靖子は寝床に横たわったまま、カミソリで自分の頸動脈をかき切って亡くなりました。まだ二十歳の若さでした。 靖子の死によって岩倉公爵家に対する逆風は収まり、爵位剥奪も行われませんでしたが……兄から「自分としては靖子のとった態度(=自殺)をむしろ喜んでさえいます。よくやってくれた」といわれてしまった靖子が哀れでなりません。