日野町事件と同じ死後再審の「徳島ラジオ商殺人事件」 冤罪被害者が歌に込めたわが子への思い

滋賀県日野町で1984年に女性が殺害されるなどした「日野町事件」は、刑が確定した本人が亡くなった後に開かれる「死後再審」としては殺人事件では戦後2例目となる。無実を訴えながら服役中に病死した阪原弘(ひろむ)さんと同様に、死後再審が初めて認められた「徳島ラジオ商殺人事件」の冤罪(えんざい)被害者も雪冤(せつえん)を果たせぬままこの世を去った。徳島事件の再審無罪から40年あまり。当時の弁護人は「再審を取り巻く状況は何も変わっていない。捜査機関は反省がない」と憂う。 1953年、徳島市のラジオ販売店で経営者の男性が刺殺された。同居していた冨士茂子さんが厳しい取り調べを受け、捜査段階で一度は犯行を自白し、逮捕された。その後、無実を訴えたが殺人罪で懲役13年の実刑判決が確定した。 しかし、決め手とされたラジオ店員の少年2人の証言が偽証だったことが発覚。冨士さんは獄中から再審請求し、同郷の作家瀬戸内寂聴さんら女性運動家も支援した。しかし、第6次請求中に69歳で病死した。検察側から少年2人の証言の変遷を示す調書など新たな証拠が開示されたのは第6次請求の時だった。 検察の不服申し立て(抗告)を経て、被告人不在の再審公判は83年9月に始まった。遺志を継ぎ再審請求を続けた冨士さんのきょうだいが出廷した。計15回、2年近くにおよぶ公判の末、地裁は無罪を言い渡した。第5、6次再審請求審で弁護団の中心だった林伸豪(のぶひで)弁護士(84)は「再審まであまりにも時間がかかりすぎた。検察が早く証拠を開示し、抗告しなければ冨士さんは生きて無罪を手にできたかもしれない」と語る。 日野町事件も証拠開示まで長い年月を要し、再審開始を認める根拠となった写真のネガフィルムが検察から示されたのは阪原さんの死後だった。また、検察の2度の抗告により、最高裁で再審開始が確定するまで約7年7カ月かかった。 再審制度を見直す政府の刑事訴訟法改正案を巡っては、検察抗告の維持や証拠開示の在り方に異論が相次ぐ。林弁護士は「(徳島事件は)権力が暴走すれば被害者を加害者にもできる、と世に知らしめた。捜査機関は反省がない」と憤る。 生前、冨士さんは冤罪によって引き裂かれたわが子への哀愁や獄中での悲壮を多くの歌に残した。 〈子の顔も 薄くぼやけて なかなかに 浮かばぬ迄(まで)に 遠く日は過ぎ〉 〈この生命 果てる日までも 我が無実 天にとどけと 叫(おら)んでやまん〉

シェアする

  • このエントリーをはてなブックマークに追加