1986年から2008年まで22年もの間、HRCの主に海外レース活動に従事した富樫ヨーコ氏。フリーライターとしても活躍し、HondaのGPマシン開発史や世界GPライダーたちの軌跡をテーマに、多数のノンフィクション作品を手掛けてきた。 彼女が見続けた二輪レースの人物たちに迫るコラムをオートスポーツwebにて掲載。第2弾は、1987年にロードレース世界選手権500ccでチャンピオンを獲得し、日本でも活躍を見せたワイン・ガードナーをフォーカス。彼女が見たレジェンドライダーの一面は? ■ローソンの参入 1987年にワイン・ガードナーはオーストラリア人初の500cc世界チャンピオンとなった。 優勝回数は15戦中7勝。タイトルを決めたブラジルGPはガードナーにとって生涯最も嬉しかった三つの勝利のうちのひとつだという。残りのふたつはグランプリで初優勝した86年のスペインGP(ハラマ)と89年のオーストラリアGP(フィリップアイランド)だ。 88年、マシンの開発が遅れたため、ガードナーはエディ・ローソン(ヤマハ)に次いでランキング2位に終わった。しかし、ガードナーにとって本当にショックだったのはシーズンオフに、89年からローソンがホンダに入ると聞いた時だった。 確かにローソンはホンダのワークスライダーになるわけではなかったが、マシンはワークスライダーのガードナーやチームメイトのミック・ドゥーハンと同じNSR500でスポンサーも同じロスマンズだった。 そして何よりもガードナーがいちばん気になったことは、チーフメカニックがアーブ・カネモトだということだ。カネモトはずっとフレディ・スペンサーのチーフを務め、スペンサーが83年と85年(500ccと250ccのダブル)にタイトルを獲得したことに貢献していた。 ガードナーはホンダに裏切られた気持ちだった。 それでもそのことを公には口に出さず、記者会見などでは“大人の振る舞い”を見せていた。しかし、内心は煮えくり返る思いだったと後日話している。 「ホンダは“エディは絶対にホンダに来ない”と言い続けていた。僕の元にはケニー(ロバーツ)からマルボロ・ヤマハに乗らないかというオファーが来ていた。契約金もホンダの倍近かった。でも僕はホンダの“エディはホンダには来ない”という言葉を信じてホンダと契約したんだ。しかもエディのホンダ入りを知ったのは、ロンドンで新聞を読んでいた時なんだよ!」 ■1989年日本GP 1989年の開幕戦日本GP(3月26日)は最高に面白いレースだった。 ウエイン・レイニー(ヤマハ)とケビン・シュワンツ(スズキ)という若手のふたりが最初から最後まで熾烈なトップ争いを繰り広げ、ロスマンズ・ホンダのガードナーとローソンが3位争いを展開した。 結局、優勝したのはシュワンツで2位レイニーとの差は僅か0.43秒だった。3位にローソンと続き、ガードナーは一度コースアウトしたため4位に終わった。ちなみにこの時ポールポジションを獲得したのは平忠彦(ヤマハ)だったが、決勝レースでは8位に終わっている。 ガードナーにとって第2戦オーストラリアGP(4月9日)は生涯で最も重要なレースだった。 世界グランプリが初めてオーストラリアで開催されることになり、世界チャンピオンのガードナーに注目が集まっていたからである。開催地は風光明媚なフィリップアイランド(2026年いっぱいで開催終了)で、ガードナーは何度もテレビに出て世界グランプリやフィリップアイランドのことをアピールした。 決勝レースが始まる前から取材攻勢で疲れ切っていたガードナーだったが、終盤レイニーとのデッドヒートを制して優勝した。 集まった約9万人の観客は熱狂し、自分達のヒーロー、ガードナーに大声援を送った。ガードナー自身も感極まってヘルメットの中で泣いていたと後日語っている。 ■天国から地獄へ 初のオーストラリアGPで優勝して国民的なヒーローとなったワイン・ガードナーだが、翌週には地獄へ転落した。ラグナセカで行われたアメリカGPで転倒し、左足の脛骨を2カ所骨折してしまったのだ。 結局、この怪我の影響でガードナーは1989年シーズン大半を棒に振り、ランキング10位に終わった。 チャンピオンになったのは“ホンダに乗るエディ・ローソン”で、500ccタイトル獲得は84年、86年、88年に続いて4度目となった。しかし、そのローソンは一年限りでホンダを離れ、翌90年はヤマハに戻ったのだった。 90年、ガードナーは念願だったアーブ・カネモトと組み、スペインGPとオーストラリアGPで2勝を挙げることができたが、相変わらず怪我に悩まされ、ランキング5位に終わった。 90年のチャンピオンはレイニーで、2位にシュワンツ、3位にガードナーのチームメイトのミック・ドゥーハンが入っている。そう、この年はちょうど世代交代の年だったと言えるのだ。 ■ガードナーと鈴鹿8耐 ワイン・ガードナーは鈴鹿8耐に10回出場して4回優勝している。最初の勝利は1985年に徳野政樹と組んで優勝した時。2回目は86年にドミニク・サロンと組んでポール・トゥ・フィニッシュした時。そして、3回目は91年に世界GPでのチームメイト、ミック・ドゥーハンと三度目に組んでようやく勝てた時だ。 ガードナーとドゥーハンはチームメイトとはいうものの仲が良くなかった。普段はあまり口もきかなかったが、8耐では協力せざるをえなかった。だが、89年はドゥーハンが、90年はガードナーが転倒してオージーふたりによる勝利は実現していなかった。 ガードナーにとって4回目の8耐制覇は92年にダリル・ビーティと組んだ時だった。 91年、GPでは一勝も挙げられず、ランキング5位に終わったガードナーは、92年も開幕戦日本GPで転倒し、シーズン前半戦を棒に振った。 7月26日の8耐でビーティと組んで勝った翌週に行われたイギリスGPの時に92年いっぱいでグランプリから引退すると発表し、その週末優勝した。グランプリ通算18回目のこの優勝がガードナーにとって最後のGPウインとなったのだった。 ■暴行事件 世界GPから引退後、ガードナーは四輪レースに参戦し、日本でもトヨタ・スープラで全日本GT選手権に参戦したが、2002年いっぱいで四輪レースからも引退した。 ガードナーにはふたりの息子、レミーとルカがいる。 ガードナーはふたりともレーサーとして育てようとしたが、ルカの方は早々にレースから離れていった。レミーの方はMoto2からMotoGPに進んだが、現在はスーパーバイク世界選手権(World SBK)に出場している。 レミーがMoto2に参戦していた16年10月16日、ガードナーとレミーは暴行容疑で逮捕された(レミーはすぐに釈放されたが、ガードナーは12日間拘留)。 当日朝、もてぎの構内で駐車場に入ろうとする道路が渋滞しており、レミーが朝のフリー走行に遅れそうになった。 一般客の車を追い越して列に割り込もうとしたガードナーに怒った客が注意したところ、ガードナーがその人物の胸ぐらをつかんで殴ってしまったというのが容疑の内容だった。おそらく息子思いのガードナーは、レミーが走行に遅れてはいけないと考えたのだろう。それでも暴力は不可だ。 その後、ガードナーはマネージャーの起用に関してレミーともめ、一時疎遠になっていたが、現在では元の仲の良い親子に戻っているという。 そう、レミーが長年使用している“87”というゼッケンは父親が世界チャンピオンになった年の数字なのだ。 現在、ガードナーは住居のあるモナコで会社を興し、自転車を開発・販売している。当然レミーのレースには注目しているだろう。日本には暴行事件以来来ていないが、いつか再び来日したいと考えているようだ。 ワイン・ガードナーが世界チャンピオンになった1987年のあの日から、もうすぐ40年が経とうとしているのだ。 ワイン・ガードナー 1977年に地元オーストラリアでキャリアをスタートし、1983年にロードレース世界GP(現:MotoGP)500ccクラスにデビューし、1986年スペインGPで初勝利。翌年はロスマンズ・ホンダのエースライダーとして強さを発揮し、年間7勝を挙げてオーストラリア人初の世界王者に輝いた。鈴鹿8時間耐久ロードレースにもホンダから参戦し、1985、86、91、92年で勝利を飾っている。1992年に二輪レースから引退し、四輪レースに転向。オーストラリアV8スーパーカーシリーズや全日本GT選手権(現:スーパGT)でも活躍を見せた。 著者:富樫ヨーコ 日本の二輪レース文化を伝える著述家のひとり。HRCで主に海外レース活動に従事しながら、二輪モータースポーツを中心に執筆活動を行う。レースの舞台裏にある技術者やライダーたちの情熱を描き続け、主な著書として『ホンダ二輪戦士たちの戦い(旧いつか勝てる)』、『ホンダNRヒストリー』、『ポップ吉村の伝説』、『選ばれしGPライダー』 、訳書に『バレンチーノ・ロッシ』、『ケニー・ロバーツ』、『ハイスピード・ライディング』などがある。 [オートスポーツweb 2026年09月09日]