「なぜ殺されなければ…1つでいいから教えてください」被害者母 涙の意見陳述【記者が傍聴した裁判(3)】広島・福山市明王台殺人事件

2025年2月6日午前10時10分 この日の法廷は大きなボードが3枚隙間なく、並べられ、 裁判所の職員が何度も何度も隙間などが無いかを確認して設置されていた。 ボードの設置には入念に行われ、10分遅れでの開廷となった。 検察官と弁護人による証拠の採用請求後に行われたのが 被害者の心情意見陳述だった。 裁判長「次は被害者の心情意見陳述ということで被害者の実母の方からご意見を伺うということになります。始めてください」 実母「私は本件被害者の母です。」 読み始めてばかりでしたが泣くのをこらえきれないようで声を押し殺していてしばらくの沈黙がありました。 法廷は静寂に包まれていました。 実母「きょうは娘の24回目の命日です。 私は皆さんにお話する日がこの日になったのは娘の意思だと思います。 娘もこの場にいてくれるはずですが、一緒に頑張って皆さんにも私たち家族の気持ちをお話しさせていただきます。 娘は私たち夫婦の元に最初に来てくれた宝物でした。 娘はとても優しい子でした。私たち夫婦は娘の後、長男、次女にも恵まれましたが、娘は家庭内を上手にまとめてくれていました。 そのため、私は3人がけんかしているところ見たことはありません。 主に次女に対しては、夫の事業の手伝いが忙しかった私に代わり、学校に行かせるために朝起こしたり、 弁当を作ったりと、娘が高校生の頃から母親代わりも務めてくれていました。 また、将来父親の事業を手伝うため、自ら希望して商業高校に進学しました。 そうして高校に進学した後、娘はファッションやお化粧にも興味を持つようになりました。 娘に甘い父親にねだれば、いくらでも買ってもらえたでしょうに娘は自分で見つけてきたアルバイトをはじめ、 もらったアルバイト代の範囲内で服や化粧品を購入するしっかり者でした。 こんな娘ですから、見本であり、憧れとなっていました。 その後、夫の事業を手伝い始めて、几帳面な責任感のある性格から、夫からもほかの従業員からも頼りにされていました。 結婚したあとは、娘は(中略)長男を授かりました。 こうして苦労して授かった長男を娘はものすごく可愛がってました。」 泣きながら鼻をすすりながら手紙を読み続ける被害者の母の声を聞き、 傍聴席にいた被害者の遺族も涙を堪えられない様子でした。 実母「(中略)妊娠後、検査で2人目が女の子であるとわかった時は、私も次女も娘と一緒に大喜びし、 妊娠中に娘は帯状疱疹になり、医師からお腹の子は諦めた方がいいと言われた時は、一緒にまた大泣きしました。 そして元気に長女が生まれた時は、家族中で大喜びしました。 こうして授かった2人の子が、いつも娘のお手製の服を着ていました。 そして、娘は孫らを連れてよく私たちの家に来ていました。 平和で本当に幸せな日々でした。私たちの喜びの中心にはいつも娘がいました。 私は事件当時入院していました。入院中は毎日朝1番娘は次女と弟の嫁に連絡し、 どの順番で私のところに行くのか、誰がその日の私の食べたいものを作っていくのか決めてくれていました。 そして毎日女四人、生後間もない娘の長女も含め、女5人でたわいもない話をして、穏やかな1日を過ごしていました。 事件の前日も娘らは私の病室に来てくれており、夫らと食事に行くと言って帰ってきました。 その時、娘は先に歩く長男を追いかけながら、長女を腕に抱いてほがらかに笑って私の手を振っていました。 それは私が見た生きている娘の最後の姿となりました。 事件の日、私は何も知らず、きょうは誰が何持ってきてくれるのかしら。 と能天気に考えていました。娘が精一杯生きるために恐怖と戦っていた時も 最後の時を迎えようとしていた時も私は何も気づかず娘に何もしてやることもできず、病室で寝ていたのです。 その日、私の病室に1番に来たのは夫でした。 夫から娘が死んだと聞かされ、私は半狂乱で病院から飛び出しました。 娘の家に着くまでの間、ずっと私は悪い夢ではないか、そんなはずではないと心の中で繰り返していました。 家に行ったらいつも通り娘が見ながら迎えてくれるはず、こういうものではないかというありえない希望に座っていました。 しかし、やっぱり娘は家にいませんでした。」 実母「突然、私たち家族は娘を失いました。娘の家を片付けに行ってみると、 そこにはカーテン、床の敷物、ベッドカバー、種から育てた庭の芝生、娘が作ったもので溢れ、いたるところに娘の思い出がありました。 (中略) 事件のため、孫らは母親だけでなく父親も、両親がいる温かい家庭も失ってしまいました。 長男は事件当時、保育園に行っていました。 長男の最後の母親の記憶は、保育園の前で行ってらっしゃいと妹を抱きながら優しく手を振って笑っているところです。 しかし、長男が帰宅したら大好きな母親はおらず、長男は一晩中娘を探し、我が家の中を歩き回り、泣き続けました。 翌日、母親は物言わぬ状態で帰宅し、そしてまたいなくなりました。 そのため、長男は、自分が保育園に行くとまた大好きな人がいなくなるのではないかと恐れ、卒園まで保育園に行けませんでした。 小学校に入学してからも、僕が学校から帰ってくるまでおじいちゃん、おばあちゃん待っててくれるよね。と必ず確認して登校していました。 長女は母の記憶も事件の記憶もありません。長女に辛い話を聞かせないよう、寂しい思いをさせないよう、長男もみんなで愛情を注ぎました。 それでも同級生からお前の家は参観日になんでいつも親じゃなくておばあちゃんが来るのかと言われ、悲しい思いをしていたようです。 被告人が逮捕された際、マスコミに報道されることを知って、私は当時大学生だった長女の下宿に走り、娘の死の真実を打ち明けました。 その間、私と長女は一晩中抱き合って泣き明かしました。 それだけでなく長女はものすごく落ち込み、数カ月にわたり大学を休学しなければなりませんでした。 長女は、叔父叔母、私に対して、ずっと黙っているのは辛かったでしょうと、のほほんとしていてごめんなさい、苦しい思いさせてごめんなさいとメールを送りました。 なぜあの子が謝らなければならないんでしょうか。 長女がこんなにも思いやりのある子に育ったところ、娘に見せてやりたかったです。 そんな子供たちももう成人し、社会人になりました。 子供たちの成長を見ることができず、子供たちが困った時、悲しい時に寄り添ってやることができず、娘はどれだけ無念だったでしょう。 考えるだけで胸が張り裂けそうになります。今回の裁判にむけて、私たちは子供たちを参加させないことにしました。 というのは、母親が殺されたという話を詳しく聞いたり、被告人の不誠実な態度を見たりすることは、子供たちにとってあまりにも辛いことですから。 再び大きな精神的なショックを受けることでしょう。 だから、子供たちを参加させないことにしたのです。 娘が亡くなってからきょうで24年が経ちました。 今も娘の死について何もわかりません。 だから、私たちは娘の死を信じることはできません。 私たちはずっと暗闇の中に沈み、ただただ時間だけ経過してきました。 毎朝、私は娘の家から持ち帰った娘の作ったベッドカバーの上で目を覚まします。 仏壇への線香を欠かしたことはありません。今も仏壇に手を合わせると涙が止まりません。 私は事件直後、警察官の制止を振り切っての中に入り、娘の姿を見ました。 その時のことを今も地獄絵図であったと振り返ります。 それでも、突然娘が理由もなくなくなってしまったことから、キツネにつまれたような気持ちで ふと扉から入ってくるのではないかと言っており、毎朝朝食をコーヒーを飲むと、 娘がいつも座っていた席に向かって娘に呼び掛けています。 それを守ってやることができなかった。無念に苦しむ私たちに1つでもいいです、少しでもいいですから教えてください。 娘はなぜ殺されなければならなかったんですか。 なぜ娘だったのですか。最後に娘はなんと言いましたか。 私を呼びませんでしたか。長男や長女の名を呼びませんでしたか。 お願いですから何か教えてください。娘は生きていたら59歳になります。 私たちの娘を返してください。最後に、(名前)へ 子供たちを守るため、よく頑張ったね。 怖かったね。痛かったね。辛かったね。無念だったね。以上です。」 読み終わった後の法廷は静寂に包まれ、すすり泣く声だけが響いていました。 *傍聴した記者の取材に基づいています。

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