「江夏巨人入り」報道は“ガセネタ”ではなかった…「江夏豊獲得に反対した巨人関係者は誰か?」運命を狂わせた西武トレード、年俸7800万円の決断

「江夏豊たった一人の引退式」――阪神、南海、広島、日本ハム、西武を渡り歩いた当時36歳の大投手・江夏。なぜどの球団からも見送られずプロ野球を去ったのか? 40年前の“不思議な引退試合”の真相を探る。【全3回の前編/中編、後編も公開中】 ◆◆◆ 昭和100年の今年は、記念イベントが各所で催され、特集記事も散見されるが、同時に「1985年40周年」でもある。「松田聖子・神田正輝結婚」「豊田商事・永野会長惨殺」「ライブエイド」「日航ジャンボ機墜落事故」「三浦和義逮捕」「夏目雅子死去」「プラザ合意・バブル経済スタート」等々、ありとあらゆる出来事が頻発したいわくつきの年である。 それはスポーツ界にとっても同様で、1985年ほど数多くのトピックで埋め尽くされた年はないかもしれない。そこで、この年に起きた出来事を、この場を借りて可能な限り回想しておきたい。 今回、採り上げるのが、1985年1月19日に行われた「江夏豊たった一人の引退式」である。新人時代から剛速球で鳴らし、リリーフ(救援)転向後には「江夏の21球」で伝説を創り、セパ5球団を渡り歩いた一匹狼の優勝請負人。そんな不世出の大投手・江夏豊の引退試合が多摩市営一本杉球場という本拠地とは無縁の野球場で行われ、主催は文藝春秋。これは一体どういうことか。 何故、甲子園や後楽園といった所縁の深い球場ではなく郊外の市営球場で行われたのか。阪神タイガースや広島東洋カープといった在籍球団ではなく、出版社の主催で行われることになったのか。そこに至る経緯を全3回で振り返ってみたいと思う。

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