昭和天皇が太平洋戦争の末期、ひそかに進めていた「終戦秘密工作」の中身

日本という国の現在のあり方を知るためには、その歴史を学ぶことが重要です。 とりわけ、近代化を遂げた日本が、なぜ太平洋戦争という無謀な戦いに突入したのか、その戦争のさなかにはどのようなことが起きていたのか、そして、いかにして戦争が終結したかを知ることには、大きな意義があることでしょう。 戦時中、国家の意思決定に大きな影響を与えた一人として昭和天皇があげられますが、その昭和天皇が戦中どのようなことをしていたかを知るのに便利なのが、『侍従長の回想』(講談社学術文庫)という本です。 著者の藤田尚徳は、海軍兵学校、海軍大学校を出たあと、海軍省人事局長、海軍省次官などを経て、1944(昭和19)年の8月に天皇の最側近である「侍従長」となった人物です。本書は、藤田が1961年に侍従長時代のことを振り返ったもの。 本書では、藤田の目から見た昭和天皇の戦時中の日々がつづられており、そこからは天皇の知られざる姿とともに、終戦が近づくなかでの政府中枢の動向が見えてきます。 たとえば、敗戦の年である1945(昭和20)年の早い段階で、天皇は終戦工作を始めていたふしがあると、藤田は回想しています。同書より引用します(読みやすさのため、改行などを編集しています)。 *** 実は戦争の終結について、陛下は二十年の初頭から、軍部にも内閣にも隠密のうちに、ある工作を進めておられたのである。 政治、軍事に関与せぬ侍従長という職責から、私はこの事について何も発言する立場にはなかったが、陛下自ら行われた工作に唯一人侍立していたものとして、此処に当時の真相を明らかにしておきたい。 それは、天皇が各重臣を個別に御文庫にお呼びになって、戦局の見通しとその対策を一人一人に質されたのである。なかでも戦争終結をどうしたらよいか、終戦の方策をもつ者にはそれを聞かれたが、和平工作として軍部を刺激することを警戒して、一切が隠密裡に運ばれた。 先にも述べたように、和平を口にすることは国民にはタブーで、直ちに憲兵隊に逮捕された頃である。陛下は御心中深く、どこに和平のきっかけをつかむかに苦慮されていたのだ。当時、政治の衝に当っていた誰よりも、最も熱心に終戦の方策をお考えになっていたといっても過言ではなかろう。 会談の準備工作は陛下の意を受けた木戸内大臣が、松平[康昌(やすまさ)]内府秘書官長を使として重臣の参内日程を決めた。軍部への影響を顧慮して、重臣が天機を奉伺する、つまり陛下の御機嫌伺いをするということにしたが、実際には余人を交えず、重臣の意向を一対一の対座でくみとろうとなさったのだった。陛下としては考えられる唯一の方策であったに違いない。 戦局の報告にすら潤色されたものが奏上され、国民生活の実態も正確に把握しがたい。しかも政治の衝に当っている政治家たちが、果して和平について、どれほど真剣な熱意をもっているかは疑問である。陛下としては、和平の第一着手として、重臣を個別に招いて、その意見を聞くことになさったのは、当然の成り行きであった。 重臣の意見を聞いたうえで、和平工作を現実に打ち出そうとなさったのではあるまいか。しかし一説には、木戸内府が宮中に壁をつくって、在野の人々の自由な意見を陛下に取次ぐことをしなかった。宮中参内すらも、相当に制限していたとの説がある。 その壁を破って近衛公らが運動して実現したのが、この重臣伺候(しこう)で、中心になったのは近衛公の上奏である、というのだが、私にはそうは思えない。これは陛下の御発意、御意志によって行われた重大な和平工作であったと信じている。 *** いかにして戦争を終わらせるか。天皇という「最終意思決定者」の肩にかかっていたプレッシャーの重さの一端を想像させられる一節です。 さらに【つづき】「昭和天皇が「驚くほどすぐれていた能力」をご存知ですか? 側近がまぢかで見ていたこと」の記事では、藤田が昭和天皇と接していて驚いた「能力」について紹介しています。

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