アカデミー賞2部門ノミネートの“難解作” 『ニッケル・ボーイズ』の挑戦的な試みを徹底解説

2020年にピュリツァー賞(フィクション部門)を受賞したコルソン・ホワイトヘッドの同名小説を映画化した『ニッケル・ボーイズ』が、Prime Videoにて配信されている。アメリカ・フロリダ州で起こった人種差別による凄惨な事件を基に、フィクションによる感動の物語を付け足して描いた内容は、それだけでもセンセーショナルだが、映画版での演出は、さらに実験的ともいえる特殊なアプローチがとられた。 登場人物2人の主観映像による構成、説明的な描写の少なさ、そして、意外な映像の引用やイメージシーンのインサート。本作『ニッケル・ボーイズ』は、率直に言って“解りにくい”バランスに仕上がっていた。だから、もともと原作に用意されたギミックや、それに付随するエモーショナルな部分が、すぐには観客に伝わらないかもしれない。 アカデミー賞作品賞を受賞した、同じく「プランBエンターテインメント」製作の『ムーンライト』(2016年)は、シンプルな物語を印象的な演出で表現したことが注目を浴びる要因となったが、本作の場合は、考えさせる演出が物語の方をも理解し難くしているところがある。本作がもし、より平易なスタイルで撮られていたとしたら、2部門でノミネートされながら受賞を逃したアカデミー賞で、もっと評価されていた可能性がある。 しかし、アカデミー賞を獲ることだけが、映画にとっての成功だとはいえない。本作がこうした挑戦的な試みで撮られているからこそ、得ているものもあるはずなのだ。そして、意味の解りにくい映画の内容を解き明かしていくことは、映画評論家にとっての腕の見せどころだともいえる。ここでは、本作のさまざまなシーンが何を描いていたのかを、じっくりと解説していきたい。 ※本記事では、『ニッケル・ボーイズ』の物語における最も重要な部分を明かしています。ネタバレを避けたい方は注意してください。 前提として知っておきたいのは、本作のモデルとなった、フロリダ州北部のマリアンナで起こった、「アーサー・G・ドジャー少年院事件」である。この少年院には、職員による生徒への暴行、強姦、拷問、殺害などがおこなわれているという疑惑があり、度重なる指導により改善の約束をしたにもかかわらず、111年もの間運営され続け、やっと閉鎖されたのが、なんと2011年だったのだという。(※1) そして施設の運営が終了した翌年からの調査により、墓石のない墓場のほかに、敷地内に55以上の埋葬地が発見され、未確認だった大勢の死亡した子どもたちがいたことが明らかとなったのだ。この、言葉を失ってしまうほどのおそろしい事実をモデルとして扱った原作小説は、多くの読者に衝撃を与えることとなったのだ。 本作の主人公は、フロリダ州の北部、タラハシーという都市に生まれ育っていく“エルウッド・カーティス”(イーサン・ヘリス)。祖母の愛情を受け、マーティン・ルーサー・キングの演説に影響を受けた彼は、心優しく正義感の強い学生となっていく。舞台となる1960年代初頭は全米で公民権運動が活発になっていた時期であったが、同時にフロリダを含む「深南部」といわれる諸州などでは、まだ人種隔離法が健在であり、白人と有色人種との結婚が認められていなかったり、学校など公共のスペースで人種を分ける政策がおこなわれていた。 エルウッドは、日常のなかでおそろしい出来事を経験する。複数の黒人の少年たちとともに白人の高齢男性にストリートで杖を体に押し付けられるという、屈辱的な扱いを受けるのである。しかもそばにいる警官は、この問題行動をする人物の暴挙を黙認するばかりか、助けているように見える。状況から考えると、おそらく犯罪の嫌疑をかけられた少年たちが「面通し」をされている場面だと類推できる。 黒人であるだけで警察に不当な尋問を受けた例は、枚挙にいとまがない。『ビール・ストリートの恋人たち』(2018年)の原作者ジェームズ・ボールドウィンは、10歳の頃に不審者として白人警官に身体検査を受けるという理不尽な経験をしたことを明かしている。南部のアフリカ系アメリカ人の生活を感覚的に視覚化した『Hale County This Morning, This Evening(原題)』で、アカデミー賞長編ドキュメンタリー映画賞にノミネートされている、本作の監督ラメル・ロスは、当時の南部にいたアフリカ系アメリカ人の日々を、ここでも主観的に表現し、観客に恐怖を体験させる。 この杖で突かれるシーンは、この後、不当な理由で逮捕され、少年院「ニッケル校」へと移送されてしまうエルウッドの悲惨な運命の前哨として配置され、当時のアメリカにおける黒人の立場の不確かさが強調されている。ここでの“杖”が支配だったり相手を人間扱いしない意識の象徴として登場するように、ラメル・ロス監督は、エルウッドの主観映像だけでなく、アフリカ系アメリカ人やアメリカ南部にまつわる“視覚的表象”を駆使し、さらに過去のアーカイブ映像なども差し挟むことによって、言語以外の方法で、黒人の視点から社会の姿を描き出している。 エルウッドがニッケル校に移送されるシーンでは、不意にシドニー・ポワチエ主演の『手錠のまゝの脱獄』(1958年)の一場面が映る。原作小説でも言及されているタイトルだが、映画版である本作では、この映画をより重要なものとしてフォーカスし、この後のストーリー展開を暗示する。最後のスタッフクレジットでも、劇中のポワチエによる、反抗の象徴となるアカペラの歌声を引用しているところから、このポワチエの演技が、本作の精神的な柱になっていることが理解できる。 度々登場するワニのイメージも興味深い。フロリダ州に広く棲息し、普段はじっとしていて、突然素早く人を襲うことのある捕食者の登場は、地域性を強調するとともに、白人の不意の気まぐれや害意によって人生が狂わされてしまう、黒人の寄る辺ない状況を暗示する意味もある。かつてフロリダで白人たちがワニを銃で仕留めるため、黒人の赤ん坊や子どもを“おとり”にしておびきだしたという話もあり、その絵ハガキのイラストが終盤でモンタージュされている。 本作で目を背けたくなるほど悲痛な場面が、エルウッドが移送されたニッケル校において、生徒の暴行を正義感から止めようとしたことで、理不尽にも通称「ホワイトハウス」と呼ばれていた懲罰小屋で鞭に打たれる場面だ。その瞬間は映像にはされず、打擲の音だけが響くなか、少年院の過去の写真と思われる子どもたちの顔が大きく映し出される。ホワイトハウスの中に、キリストの言葉を強調した「聖書赤字版(レッドレター)」が置かれていることで、学校がおこなっている行為と理念との矛盾や、宗教の理念による更生という大義名分が、虐待の存在を覆い隠していたことも暗示する。 不運や無理解から、厳しい状況に置かれてしまったエルウッド。彼の希望となったのが、“ターナー”(ブランドン・ウィルソン)という生徒だ。気の合った2人は、やがて親友となっていく。どことなく『手錠のまゝの脱獄』のシドニー・ポワチエの姿にも似ているターナーは、遠くテキサス州の都市ヒューストンから家出をしてきた少年で、ニッケル校には二度目の収容なのだという。この後、基本的にエルウッドの主観映像によって構成されていた本作に、ターナーの主観映像も加わることとなる。『ニッケル・ボーイズ』は、この2人の視点で進行していく作品なのである。

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