12歳の少女が見た昭和50年 「私作る人、僕食べる人」は女性差別か 働くお母さんは素敵 プレイバック「昭和100年」

<当時の出来事や世相を「12歳の子供」の目線で振り返ります。ぜひ、ご家族、ご友人、幼なじみの方と共有してください。> 「私作る人、僕食べる人」というラーメンのCMが中止になった。女性団体から「男女の役割を固定化するもの」として抗議があったらしい。私は、そんなことは想像もせずに見ていたので正直、驚いた。 CMでは男の人が「食べる人」で、「作る人」は女の人とその子供みたいな女の子だった。私もたまにお母さんの料理を手伝うので、普通にある話だと思うのだが、「女性だけが作る人か」と批判されれば、確かにそうかもと思った。 私の母方の祖母は空襲で亡くなり、祖父も戦死した。疎開していて無事だったお母さんは、私のひいおばあちゃんに育てられた。ひいおじいさんにあたる人は南満州鉄道という会社に勤めていて、戦前は裕福な家庭だったが、そのひいおじいさんも今の中国のほうで亡くなり、一家は戦後、大変苦労したという。 それでもお母さんは頑張って大学まで行き、公務員になった。本当は大学で勉強した分野を生かして企業で働きたかったが、昭和30年代は大卒の女子を採用する会社はほとんどなかったらしい。会社員の父は、母が遅くなる時に晩ごはんを作ってくれることもあるし、わが家はそれほど「男女の役割」は固定化されていないと思う。 世の中は2年前の石油ショックから続く不況がひどくなっているらしい。2月には働きたくても働くところがない完全失業者が100万人を超えたと新聞に書いてあった。父の会社も大変なようで、最近は帰りが遅いことも多い。父は「公務員は景気に関係なくていいな」などと余計なことを言って母に叱られることもあるが、わが家は「かかあ天下」なのでうまくいっているのだと思う。 この年は3月に山陽新幹線が岡山から博多まで開通し、東京と博多が新幹線でつながった。「ひかり号」ならわずか7時間だ。7月にはさらに遠い沖縄で海洋博という万博のようなものが開かれた。 今も元気なひいおばあちゃんは今年75歳になるが、生まれて初めて飛行機に乗って沖縄まで行ってきた。団体旅行とはいえ、帰りにパイナップルをいくつも抱えて帰って来て、仏壇に3つ供えていた。

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