1878(明治11)年5月に明治政府の最高実力者・大久保利通が暗殺された「紀尾井町事件」実行犯の旧加賀藩士らの判決内容をまとめた裁判記録とみられる史料が、14日までに石川県立歴史博物館に寄贈された。内灘町の男性が穴水町の実家に眠っているのを見つけて長く保管していた。警視局(現在の警視庁)が判決内容を県に伝えるに当たり、局内で許可を得るための決裁文書である可能性が大きく、専門家は「事件の詳細を伝える一次史料として極めて貴重」と指摘している。 紀尾井町事件は島田一郎、長連豪(ちょうつらひで)ら旧加賀藩士5人を含む6人が実行犯で、1878年7月27日、全員に死刑判決が言い渡され、即日斬首された。このほか島田の依頼で「斬奸(ざんかん)状」と銘打った暗殺趣意書を新聞社に投稿した者、事件に快哉(かいさい)を叫ぶ手紙を国元に送った石川県人らが逮捕された。 金沢星稜大の本康宏史特任教授によると、裁判記録の文書には紀尾井町事件に関連し、7月27日、9月26日に二十数人に言い渡された判決内容が記されている。島田、長の判決の記載はないが、実行犯の一人である杉村文一の判決には「斬罪」と書かれている。 逮捕者の中には証拠不十分やアリバイがあったため無罪となった人もおり、旧加賀藩士の薄井達太郎が「免罪」、吉田嘉忠、亀田臣が「無罪」になったと記されていた。本康氏は警視局「東京警視本署」の押印があることや用紙の表記から公文書と思われると説明している。 ●07年能登地震後に発見 文書は、内灘町千鳥台1丁目の横田憲さん=2024年8月、76歳で死去=が2007年の能登半島地震後、穴水町大町の実家で資料を整理していた際に見つけた。横田さんの妻、ひろみさん(76)によると、横田さんは生前「石川にゆかりのある資料として保管してもらえればありがたい」と話していた。 文書を分析した本康氏は、どのような経緯で穴水町の民家にあったのかは分からないとした上で「廃棄処分される予定だったのを、石川県の関係者が譲り受けた可能性がある」と推測している。 文書は県立歴史博物館で26日に始まる春季特別展「歴史をつなぐ-石川を語るれきはくコレクション-」(北國新聞社特別協力)で公開する。 ●災害ごみ「相談を」 昨年元日の能登半島地震以降、被災家屋などから古文書や民具などを安全な場所に移して応急処置を施す「文化財レスキュー」が進んでいる。県内では3月6日時点で、168件を「救出」した。 本康特任教授は「災害時に最も大切なのは命で、文化財は後回しになりがちだが、地域の独自性を表すものとして重要だ」と指摘。「捨てれば永遠に失われる。ごみと思える物でも、まずは市町の文化部局に相談してほしい」と語った。 ★紀尾井町事件 1878(明治11)年5月14日、大久保利通が東京の紀尾井町で暗殺された事件。実行犯は旧加賀藩士の島田一郎、長連豪、杉村文一、杉本乙菊、脇田巧一と島根藩士の浅田寿篤の6人で、一味は犯行声明の斬奸(ざんかん)状を出し、大久保の独裁や不要な公共事業、外交政策の失敗などを批判した。「紀尾井坂の変」とも言われ、日本近代史に深く刻まれている。