【立ちんぼの近現代史】令和の時代に〝最も原始的な風俗〟である立ちんぼが増殖した「3つの理由」

江戸時代の「夜鷹」から、近年問題となっている令和の「交縁女子」女子までにいたる「立ちんぼ」の歴史を風俗ジャーナリストの生駒明氏がたどる連載の第5回「令和の立ちんぼ」。後編では東京以外、大阪や横浜などの立ちんぼと、これまでの歴史をふり返って、なぜ令和の時代に最も原始的な風俗である「立ちんぼ」が増殖したのかについて考察する。 【前編】コロナという災厄が生んだ大久保公園の〝交縁女子〟と飛田新地が分けた〝明暗〟 ◆一般人と見分けるのが難しかった大阪・梅田『泉の広場』の立ちんぼ 令和時代に立ちんぼが大きな話題になったのは、東京だけではない。大阪でも増え続ける街娼への警察の対応が、世間を騒がせた。 大阪府警は令和元(2019)年~令和2(2020)年にかけて、約1年がかりで61人の立ちんぼを現行犯逮捕した。場所は梅田の地下街『ホワイティうめだ』の外れにある『泉の広場』である。以前は噴水の周りに座れるスペースがあり、定番の待ち合わせスポットとなっていた。多くの人に利用される一方で、売春相手を探して立ち続ける街娼の存在が、周辺の住民や飲食店関係者を悩ましていた。摘発は捜査員らの「何とか風紀を正したい」という執念が結実したものだった。 泉の広場には、遅くとも平成17(2005)年ごろから立ちんぼが多数いた。〝声をかけられるまで待ち続けるだけ〟の独自の客待ちスタイルゆえ、〝売春婦〟と認定するのが難しく、捜査員らは手をこまねいていたという。逮捕された女性は当時17~64歳と幅広い年齢層で、大阪や京都、兵庫などの関西圏だけでなく、長崎や香川など遠方からも訪れていた。半数以上が無職だったが、なかには学生や主婦もいたという。 泉の広場は令和元(2019)年12月にリニューアルし、かつてのシンボルだった噴水は撤去され新規店舗が進出。以降、昼夜を問わず多くの人で賑わいを見せているが、今もなお時折立ちんぼらしき女性が現れるという。一度根付いた慣習はそう簡単には消えないのだ。 ◆街の雰囲気を明るくしたら立ちんぼが9割減少 ’19年~’20年の摘発の後、泉の広場にいた立ちんぼは梅田のラブホ街に流れた。幅約4m、長さ約100mの通称『アメリカン通り』には、令和4(2022)年秋ごろから客待ちする女性が増えはじめたという。20代前半が目立つが、なかには18歳や40代とおぼしき女性もいた。令和5(2023)年夏以降で売春防止法違反容疑での逮捕者が約30人に上るなど、問題視されていた。 深刻化する立ちんぼの客待ち行為に歯止めをかけるため、大阪府警曽根崎署は令和6(2024)年12月にこの道路一面を黄色に塗り替えた。魚が泳いでいるイラストのステッカーが道路上に貼り付けられたほか、薄暗かった通りに街灯を新設し、雰囲気を明るくした。「目立つ場所を嫌がる人間の心理」を利用した対策である。これは絶大な効果があり、4ヵ月後には立ちんぼが約9割も減少したという。 だが、売春がなくなったわけではなかった。路上から姿を消した女性たちのなかには、摘発を回避するために出会い系居酒屋へと場所を移し、売春に励んでいる女性もいるという。姿は見えなくなったが、別の場所に移っただけであった。 「売春をなくす」という根本的な解決のためには、「立ちんぼを逮捕する」対症療法よりも、女性たちの事情を受け止めることで、「立ちんぼをせざるを得ない女性を減らしていく」予防的措置が必要なのだろう。 大阪では難波にも立ちんぼスポットがあった。令和5(2023)年11月、近鉄大阪難波駅に直結する近鉄難波ビルの周辺で一斉摘発が行われ、20代の女性4人が逮捕された。この場所には、多い時には20人ほどが立っていたという。このほか、地下街『なんばウォーク』、道頓堀のグリコサインの下・通称『グリ下』などにも街娼がいたといわれている。 新宿の交縁女子と同様に、梅田や難波でもホストで売掛をして大金が必要になり、路上に立つ女性が多くなっていた。違法だと分かっていても、すぐにその場でお金がもらえるのは捨てがたい魅力だったのだろう。 もちろんリスクもあった。「路上に立っているときに殴られる」「ホテルに入ってから暴力を振るわれる」など、危険な目に遭う女性は多かった。お金を払わず逃げたり、「カネを払っているのに全然サービスしてくれない」とキレる男もおり、客とのトラブルは絶えなかったという。 ◆横浜には外国人の立ちんぼが… 新宿や梅田、難波に若い日本人女性があふれる一方で、タイ、フィリピン、ペルーなどの外国人の立ちんぼが多数いたのが、横浜最大の歓楽街を抱える関内エリアだ。JRの関内駅から徒歩10分ほどの若葉町には、令和5(2023)年春には30人もいたという。女性だけでなく男娼もいた。 相場は1万5000円で、プレイの場所はラブホではなく、立ちんぼが暮らすマンションの一室だった。関内周辺には若葉町、末吉町、曙町、福富町、伊勢佐木町といくつか立ちんぼスポットがあるが、検挙が増加したことにより、若葉町辺りに集中するようになったという。 近くの駐車場やビルなど所構わず性行為が行われることに地域住民が激怒し、摘発が続いたため、一時はほぼ壊滅状態となった。だが、時間が経つとちょこちょこと現れるようになり、検挙と再開のイタチごっこがここでも繰り返されている。 令和時代の立ちんぼの特徴は、年齢層が劇的に若くなったことである。女性のルックスも飛躍的に向上し、他の風俗と比べても遜色ないものになった。平成時代までは、街娼は主に〝風俗店から弾かれた人たち〟がやっていた。不法滞在の外国人や、高年齢化し客がつかなくなった風俗嬢などが街頭で客をとり、風俗産業におけるヒエラルキーの最底辺に位置づけられていた。 だが令和になると、そういった従来の立ちんぼの〝負のイメージ〟は覆された。パッと見は普通っぽい日本人女性が気軽にやるようになり、〝風俗店で十分に稼げる女性〟もいた。さらに一昔前なら遊ぶのに3万~5万円は必要と思われる高級風俗店で働いていそうな女性が、1万~2万円で春を売るようになった。男性客の側からすると、大久保公園周辺が若い女性で賑わった時期は、「立ちんぼ遊びの黄金時代」だったと言える。 ◆なぜ令和の時代に立ちんぼが増殖したのか 最後に「立ちんぼの近現代史」についてまとめたい。江戸時代から令和時代まで、約400年にも及ぶ〝立ちんぼの変遷〟の歴史を振り返ると、昔は立ちんぼが出現する背景には常に〝貧困〟があった。だが時代が進むにつれて、その割合は小さくなっていき、代わりに大きくなったのが〝心の飢え〟である。 江戸時代の「夜鷹」や明治時代の「白首」は、〝生活の困窮〟から街娼をするのがほとんどだった。しかし昭和戦後の「パンパン」は〝より豊かな暮らしがしたい〟、令和の「交縁女子」になると〝推し活に使う資金がほしい〟という動機の割合が大きくなった。少なからぬ人数の令和の立ちんぼが、男に貢いで〝承認欲求〟を満たすべく客をとっていたのである。そして「21世紀の令和時代になぜ、立ちんぼが増殖したのか?」という問いに対する答えは、大きく3つある。 一つ目は、「女性たちが店に所属しなくても大金を稼げるようになった」ことだろう。援助交際、パパ活、裏引き(水商売や風俗の女性が店を介さずに客からお金を受け取ること)などの流行を経て、個人でやったほうが儲かることに多くの女性たちが気づいた。 二つ目は、ホストクラブの客層が若年化したことである。かつては富裕な有閑マダムや風俗嬢など「すでに金銭を持っている女性たち」が主だったのが、コロナ禍以降は「まだ金銭を持っていない若い女性たち」が大幅に増えた。これはホストクラブが若い女性たちが持つ〝潜在的な性的資本〟に着目したからだ。結果、ホストの色恋営業にハマった女性たちが、彼らに貢ぐ資金を稼ぐために売春行為を教唆され、路上に立つようになった。 三つ目は、立ちんぼは「やるのが簡単」なためだろう。〝路上に立つだけ〟というこれ以上ないアナログな方法だからこそ、いつでも誰もが手軽に働くことができる。令和時代の立ちんぼは、多くの性風俗店の女性たちが、コロナ禍という危機的状況に陥った時に増殖した。自由で効率よく稼げる〝立ちんぼという働き方〟はその単純性が再評価されたのである。 江戸時代から令和時代にかけて、立ちんぼは「最も原始的な形態だからこそ」、他の仕事で稼げなくなった多くの女性たちが最後にすがる〝駆け込み寺的な職業〟だった。 これからの時代、取り締まりがさらに厳しくなって、立ちんぼが根絶されることがあるかもしれない。だが、戦争やコロナ禍のような時代を揺るがす災厄が起こったときには、あっけなく復活するだろう。立ちんぼという「受け皿」が人々の記憶の中で生きている限り、再び姿を見せるに違いない。 『ルポ 歌舞伎町の路上売春』春増翔太、筑摩書房、2023年 『新型コロナと貧困女子』中村淳彦、宝島社、2020年 『コロナと風俗嬢』八木澤高明、草思社、2021年 『歌舞伎町コロナ戦記』羽田翔、飛鳥新社、2021年 『ルポ歌舞伎町』國友公司、彩図社、2023年 この他、多数の書籍、雑誌、ネット媒体などを参照しました。 取材・文・写真:生駒明

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