狭山事件・冤罪被害者の石川一雄さん死去 差別に苦しむ人々結んだ闘い

冤罪被害者の石川一雄さんが3月11日夜、故郷である埼玉県狭山市の入間川病院で死去、86歳だった。昨年11月1日に東京・日比谷野外音楽堂での市民集会で挨拶した石川さんは「狭山から日比谷まで3回も転げた」と語っていた。その目は腫れ、ほとんど視力を失っているようにも見えた。 昨年末から石川さんは肺炎で妻早智子さんの地元、徳島市の病院に入院。年明けに「どうしても狭山に帰りたい」と車で故郷に戻ったが回復には至らず、誤嚥性肺炎で生命を閉じた。石川さんの死を知った冤罪・大崎事件の鴨志田祐美弁護士は「再審法の不備で救済が遅れ、存命中に再審無罪を勝ち取れず、この世を去る犠牲者が出てしまった。なんとしても今国会で再審法改正を実現させることを石川さんの御霊に誓う」ことをインターネットに記した。 袴田事件の袴田巖さん(89歳)は冤罪を晴らしたが、検察の異議申し立ての抗告で歳月がかかり、死刑執行の恐怖から今も拘禁症に苦しむ。再審法改正を求める幅広い世論の高まりに議員連盟が結成され、与野党の国会議員377人が参加。全国の地方議会で524の意見書採択。今国会では成立が見込まれているが、石川さんには間に合わなかった。 「石川青年」は、社会の底辺で差別に苦しむ多くの人々を結び付ける闘いの象徴になっていた。狭山事件再審弁護団の団長、中山武敏弁護士(81歳)もその一人。石川さん同様に、自らも福岡県直方市の被差別部落に生まれた中山さんの母は、廃品回収のリヤカーを引きながら育ててくれた。家族のために中卒で働きに出た中山さんにとって、警察・検察の脅しや誘導に屈し、書けない文字で「脅迫状を書いた」と自白した石川青年の心中は痛いほどわかった。 中央大学の夜間で働きながら司法試験に合格した中山さんは、1963年の高校女子生徒殺人事件=狭山事件=の見込み捜査で被告人に仕立てあげられた石川さんの弁護団に2審から加わる。さらに軍人遺族に厚く民間戦災者に薄い、この国の戦後補償の冷酷を告発した東京大空襲訴訟の弁護団長としても奔走。この人柄に東京都知事選挙に立った宇都宮健児弁護士(元日本弁護士連合会会長)や、自民党の顧問でもあった小林節弁護士も狭山弁護団に参加した。

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