「天誅」の開始と武市半平太、攘夷別勅使の派遣の決定、随行員の選別を任された武市の動向

(町田 明広:歴史学者) ■ 天誅の開始と武市半平太 文久2年(1862)7月20日、島田左近が暗殺された。島田は、九条家に仕えて大老井伊直弼の腹心長野主膳と協力し、関白九条尚忠を親幕府派に転向させ、一橋派の探索や和宮降嫁の画策に従事した。そのため、即時攘夷派から憎まれ、薩摩藩の田中新兵衛らに暗殺されて四条河原に梟首された。この暗殺こそ、天誅のスタートと位置付けられる。なお、武市半平太は本件には無関係であったが、事後に肯定的な意見を述べている。 閏8月20日、本間精一郎が暗殺された。本間は、勘定奉行川路聖謨の中小姓となり、川路に従って京都に行き、諸国の尊王志士と交流したが、その言動が同志の反発を招いて暗殺された。武市が初めて直接指揮をした天誅で、土佐勤王党のみで実行した。四条河原に梟首し、傍らの木札に「薩長土之三藩ヲ様々讒訴に及び、有志之間を離し、姦謀相巧、或は非理の貨財を貪り」と、罪状を墨書した。 閏8月22日、宇郷重国(玄蕃頭)が暗殺された。宇郷は、九条家の家臣として島田左近とともに、京都で反幕府勢力の弾圧に関与し、和宮降嫁工作など公武合体策の推進のために暗躍した。そのため、即時攘夷派が大いに憤激し、京都九条家下屋敷内の居所で殺害され、松原河原に梟首された。この暗殺は肥後藩志士ら5、6人の犯行であることが有力だが、武市は何日も前に相談を受け、指揮は執らないものの、この天誅の相談役になった。

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