ブラジル日系社会『百年の水流』再改定版 (167) 外山脩

その繭でつくる絹が米国で軍需物資になっているということも、父親たちの話で知った。 Fは、前記の十六歳の友人を誘って、養蚕舎に焼討ちをかけることにした。狙ったのは昭和植民地という処であった。 昭和植民地は第一、第二、第三と三カ所から成っていた。 いずれも多数の養蚕舎があった。二人は、初日は第一植民地を襲い、翌日は第二を飛び越して第三をやり、三日目は第二に戻ってやった。 三日目は、警戒に人が出ていたが、その中に紛れ込んでやった。 毎晩、夜九時頃、馬に乗って出かけ目標地点から少し離れた所で降り、馬を林に隠し、歩いて接近した。 養蚕舎は壁も屋根も、サッペ=茅=で出来ており、枯れていたから、火をつければ簡単に燃え上がった。 が、直接火をつけたわけではない。そんなことをすれば、すぐ見つかってしまう。 そこで予め上質の紙巻きタバコを何十本と用意、一旦、紙の部分をはがして、中央部にマッチの燐をつめ、再び紙を巻いて糊付けし、元の形に戻した。 これを持参、養蚕舎のそばで、両端に火をつけた。(当時のタバコは、フィルターはついていなかった) それを、サッペの中にアチコチ差し込んだ。何カ所か、その仕掛けをした後、そこを離れた。振り返ると(煙草の火が燐の部分に移り小さな炎を発し)サッペが燃え上がっていた。次々と…。 二人は、祖国日本を裏切る非国民に、天誅を下したと痛快がっていた。 Fは自分たちがやったことを、父親にもほかの誰にも話さなかった。焼討ちをやったのは、この時だけである。 その後、類似の事件がアチコチで起きた。その噂は聞いたが、誰がやったのかは判らなかった。「同じ志でやったのかな~」と、想像していたという。 Fから話を聞いてから一年ほどして、また小さな奇跡が起きた。全く偶然に、この焼討ちの被害者に会ったのである。その婦人は、こう語った。 「子供のころ、マリリアの第一昭和植民地に住んでいて、ウチの養蚕小屋が焼かれました。夜、突然、外で『国賊!』と叫ぶ声がして、誰かが走って行きました。 気がついたら、養蚕小屋が燃え上がっていました。 子供だったので、それ以上のことは覚えていません。ウチでは、それ以後、養蚕は止めました」 第一昭和植民地が焼討ちされたのは、その時だけだったという。 とすれば、Fたちの一件であったろう。 ほかに別の焼討ちで高杉某という男が逮捕されたとする資料はあるが、詳しいことは不記載である。 従って、Fたち以外の多数の事件は、誰がやったのか未だに明らかになっていない。 以下は推定になるが、襲撃は、個人または少数のグループによる衝動的行動であったろう。 当時「養蚕、薄荷生産は利敵産業である」という声は、強力な世論になっていた。 襲撃の実行者は、英雄視されていた。その頃を知る人は、襲撃の知らせが流れてくると、 「皆、ワァーやってるぞ、やってるぞ!と興奮した」 という。 そういう具合であれば「自分も」と衝動に駆られる者も出たであろう。 それと、誰かがやると、それに続くのは、心理的にも楽である。 一方、被害者の多くは、警察に訴え出なかった。 東谷は、その小冊子の中で、要旨「敵性産業防止運動の効果が現れ始めました…(略)…襲撃を受けた側が被害を警察に届けないのは、敵性産業で金を儲ける後ろめたさが…(略)…」などと記している。 ともあれ、襲撃事件の興道社犯行説は、裏付けは何もない風説に過ぎなかったのである。 臣道連盟の誕生 なお、吉川の拘置が長引いていた間、興道社は名称を変更している。その理由に関しては、明確ではない。 改称の時期は、一九四五年、終戦直前である。月日に関しては複数の説がある。 その新しい名称が臣道連盟であった。(当時の使用文字は臣道聯盟) 理事長には、拘置中の吉川が指名された。 臣道連盟という名称は、字画といい語感といい格調高く、団体名としては悪くない。が、独創ではない。「臣道」は日本で昭和十五年、一九四〇年から流行した言葉である。

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