「軍隊と一緒に行動した行政も住民を守れず」 島田知事はスパイ逮捕を指示 那覇市繁多川で沖縄県庁壕などの戦跡巡り

[戦後80年] 那覇市立繁多川図書館と同市繁多川公民館が共催する戦跡巡りが4月26日、繁多川地域であった。約30人の参加者は、識名宮の敷地内にあるシキナグウヌガマ(識名宮洞窟)と、戦場で最後の市町村会議が開かれた県庁・警察部繁多川壕(県庁壕・シッポウヂヌガマ)の内部を歩き、80年前に思いをはせた。案内は繁多川の字誌編集委員の柴田一郎さん(81)が務めた。(社会部・末吉未空) 1945年4月1日、米軍が沖縄本島に上陸。同24日、第32軍司令部から非戦闘員の首里立ち退き命令が出ると、当時の県知事だった島田叡氏は25日に県庁壕に移った。 県庁壕は自然壕のシッポウヂヌガマを一部拡張して構築された。約100人が避難し、知事室や荒井退造県警察部長室もあった。 4月27日、島田知事は4人の警察署長と、首里以南の18市町村長を県庁壕に招集。必勝の信念や避難してきた人の受け入れ、食糧増産、壕の増強のほか、スパイを見つけ出し逮捕するよう指示したという。これが最後の市町村会議となった。 柴田さんは「軍隊は住民を守らない。軍隊と一緒に行動するようになった行政も住民を守ることができなかった」と説明した。 5月1日、島田知事は戦場における行政機関として沖縄県後方指導挺身(ていしん)隊をつくると、行政職員の業務は「戦争一色」と化した。 シキナグウヌガマは、奥行き約7メートル、幅約10メートルの自然洞窟。当時は繁多川住民45人が避難していたほか、那覇や中部の人もいた。 参加した大城紀子さん(72)は「ガマにいた人たちは、最悪の条件で生きていた。さらに南部で地獄を見ると思うと非常に胸が詰まる」と話した。 柴田さんは、県庁壕を特定し、繁多川の戦争について調査していた戦争体験者の知念堅亀さん(享年87)が残した資料などを基に語り継いでいる。壕から地上に出ると、この日は普段より案内する際の言葉がよく出てきたと振り返った。「知念さんとは互いに艦砲の喰ぇー残さー。80年前の自分が乗り移ったんじゃないかな。何か今日は別人になったみたいだった」と涙を浮かべた。

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