1995年3月20日、「地下鉄サリン事件」が発生した。この捜査には、一人の警察職員の科学的な知見が活かされた。読売新聞の人物企画「あれから」をまとめた書籍『「まさか」の人生』(新潮新書)より、服藤恵三さんのエピソードを紹介する――。(第2回) ■1995年3月20日、東京の地下鉄で起きた大事件 謎の液体がしみ込んだ脱脂綿は3重のポリ袋に保管されていた。緊急鑑定を行うと、猛毒ガスを示すアルファベットがモニターに浮かび上がった。 〈Sarin〉。1995年3月20日、時刻は午前9時34分。液体は東京都内を走る地下鉄の車両から採取されたものだ。複数の駅で乗客が倒れているという通報が相次いでいたが、原因は不明だった。 モニターを前に、警視庁科学捜査研究所研究員の服藤(はらふじ)恵三さん(当時37歳)は驚愕した。 「サリンは人を殺すためにしか使われない。そんなものが都心でばらまかれたのか」 死者14人、負傷者6000人超を出すことになる「地下鉄サリン事件」。この日を境に「オウム真理教」と対峙していく。同時に服藤さんが「真の科学捜査」を追求する出発点となった。 ■嫌な予感がした捜査員のひと言 いつもと変わらない朝の静けさが、救急車のサイレン音で破られた。 1995年3月20日午前8時20分過ぎ。東京・霞が関にある警視庁科学捜査研究所で白衣を着込み、仕事の準備をしていた服藤さんは、異変を察知して警察無線を聞いた。 「地下鉄の築地駅で人がたくさん倒れている」 小伝馬町、人形町、霞ケ関。他の駅も同じ状況だった。 9時5分。脱脂綿が入った3重のポリ袋を持って捜査員が科捜研に入ってきた。築地駅に停車中の車両から液体を採取したという。捜査員は「暗い。夕方のようだ」と言った。 縮瞳――。瞳孔が縮んで視界が暗くなる症状は、前年6月に長野県内で発生した松本サリン事件の被害者にも表れていた。嫌な予感がした。 庁舎の屋上へ駆け上がり、風を背に受けて息を止め、ポリ袋をほどく。脱脂綿をピンセットで三角フラスコに移して蓋をし、部下に渡して緊急鑑定を行った。液体が残った袋の処理を済ませて階下に戻る。モニターに示された鑑定結果は「サリン」。警視庁トップの警視総監に報告が上がり、「人命に関わる問題。即、発表だ」と判断された。 「サリンの可能性が高い」。11時、捜査1課長が記者会見で発表した。警視庁ではオウム真理教による犯行との見方が浮上していた。