ブラジル日系社会=『百年の水流』(再改定版)=外山脩=(178)

それからユックリ、こう話し始めた。 「その件に関して、これまで新聞や本に書かれた記事は総て間違っている。ワシは、本当のことを世間に知らせたい、と思い、当時の資料を保存していた。が、何十年経っても機会は来なかった」 機会とは、事件が見直される動きのことであろう。 「それで去年、その資料は焼き捨てた!」 これには唖然とした。 知り合って三十数年、筆者は押岩の古傷に触れるのを避けていた。一方、押岩は、それ以前を含めて五十年以上、今回の筆者の様な目的の取材者を待ち続けていたのである。 しかも一年の違いで、貴重な資料が灰になってしまっていた。 仕方なく筆者は、事件に関して覚えていることだけでも教えて欲しい、と頼んだ。 すると押岩は、核心に触れることを話し始めた。 「あの内、サンパウロで起きた事件は…」と。 サンパウロで起きた事件とは、次の四件である。 ▽一九四六年四月一日 古谷重綱(元アルゼンチン公使)襲撃 失敗 ▽一九四六年四月一日 野村忠三郎(元文教普及会事務長)襲撃 射殺 ▽一九四六年六月二日 脇山甚作(日本陸軍退役大佐)襲撃 射殺 ▽一九四七年一月六日 森田芳一 義弟を誤殺 襲撃されたのは、いずれも敗戦派の主要人物であった。森田以外は、前章までに登場ずみである。 森田は戦時中から中立国スエーデンのサンパウロ領事館で、日本・日本人権益保護の仕事を担当していた公証翻訳人である。(スエーデン領事館は戦時中、スペイン領事館から、右の権益保護の役目を継承) 戦後、森田はDOPSに協力、臣道連盟を主とする戦勝派弾圧で、極めて重要な役割を果たしていた。 連続襲撃事件は、 四月一日の古谷・野村事件が皮切りになって始まっている。 押岩は淡々と話を続けた。 「…臣道連盟の特攻隊がやったということになっているが、臣道連盟は関係ない。特攻隊でもない。やったのは我々の特行隊である。特別行動隊の略の特行隊…。特攻隊は特行隊の誤報だ」 筆者はハッとした。 「やったのは我々…」 と確かに言ったのである。 言葉通りとすると、日系社会…否、日本人の歴史上、不気味な光を放つ右記の連続襲撃事件を決行したテロリストの一人が、今、目の前に居ることになる! 詳しく聞くと、押岩自身が銃の引き金を引いたわけではなかった。が、二度に渡って襲撃計画を立て、決行者を送り出し、その嫌疑で逮捕され、未決囚拘置所に長く居ったという。 襲撃したのが臣道連盟・特攻隊と誤報された理由に関しては、細部は掴んでいない様子だった。 その後、筆者が事件の調査を進めていく過程で判ったが、それについては、これも次章で…ということになる。 テロリストというと、狂信的な言動、陰険な顔つきを想像するが、押岩が漂わす雰囲気は全く違っていた。 普通の人で、澄んだ人柄の好々爺という感じだった。さらに、金や地位を追い求めて生きて老いた人間に比べると、品と格があった。 筆者は、その印象を十分、読者に伝えるには、文字では無理と考え、後で、写真の使用を申し入れてみた。断るだろう…と思ったが「写真を使うのか?」と一寸迷惑そうな表情をしたものの、承諾してくれ、昔の写真を何枚か貸してくれた。 別掲の写真が、その一枚である。

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