沖縄県糸満市摩文仁の平和祈念公園の「台湾之塔」では22日、台湾出身の戦没者を慰霊する顕彰祭が行われ、軍属として食糧確保などに従事した楊馥成(ようふくせい)さん(103)が参列した。「われわれの仲間が先に逝った。今日は何としても参列しなければいけないという気持ちで来た」。楊さんは台湾之塔をしみじみと見上げた。 先の大戦では台湾人の軍人・軍属約21万人が動員され、約3万人が戦死、戦病死した。軍人の多くは志願兵だったとされる。 戦後は日本人として扱われず、日本政府は補償の対象から外した。台湾出身の戦没者を祀(まつ)る台湾之塔は平成28年に建立された。30年には李登輝元総統が石碑に「為国作見證(国のために証言する)」との揮毫(きごう)を寄せ、石碑の除幕式にも出席している。 楊さんは式典で、台湾や日本の関係者らを前に「今日はわざわざお越しいただき、英霊たちに代わってお礼を申し上げます」と流暢(りゅうちょう)な日本語であいさつした。 楊さんは大正11(1922)年、日本統治時代の台湾で生まれた。日本語教育を受け、台南州立嘉義(かぎ)農林学校(現・嘉義大)を卒業。農林技師になり、戦時中は「大井満」という日本名で旧日本陸軍第7方面軍の補給部隊に配属され、シンガポールで食糧確保の任に当たったという。 ■戒厳令で奪われた言論の自由 復員後は台湾で再び技師を務めたが、大陸から逃れてきた国民党政府が戒厳令を敷くと言論の自由は奪われ、「白色テロ」と呼ばれる市民の逮捕・投獄が横行。「日本に加担した」といった廉(かど)で多くの人が拷問を受けた。楊さんも「異端分子」とみなされ、約7年間投獄された経験を持つ。 戦争体験者が減る中、残された世代に伝えたいことについて問われると、楊さんは「戦後、日本の一般国民は、戦争で日本軍が東南アジアや大陸で侵略し、先人たちが悪いことをしたと、自虐的な考えを持っている人がいる」と危惧し、こう強調した。 「だが、そうではない。東アジアの白人の侵略から何とかして守ろうとした」(大竹直樹)