ブラジル日系社会=『百年の水流』(再改定版)=外山脩=(206)

蒸野は、後に逮捕され裁判にかけられることになった時、医師の精神鑑定を受けた。「日本は戦争に勝ったと思っているか?」と訊かれ、 「勝ったか負けたかは知りません」 と、正直に答えた。 彼も頑固な戦勝派ではなかったのである。 ちなみに、蒸野は事件時、日の丸を腹に巻いていた。それを筆者の取材時も保存していた。が、そこに「決死 報国 特行隊」の文字はなかった。 蒸野は「誰かから貰った記憶はあるが、誰であったか思い出せない」と言う。 白い四角の布に赤く丸い布を、上手に縫いつけてあった。既述した白石カズエが贈ったものであろう。 なお蒸野も、この襲撃決行に関して、 「後悔はしていない」 と言った。 被害者の野村忠三郎は長野県人で四十七歳であった。戦争の勝敗問題から発した異常事態を終らせるためには、邦字新聞の発行が不可欠であるとして、藤平正義と共に準備をしていた。 好漢で、人から「野村の忠さん」と親しまれた。 前章で記した終戦直後の十月十日、コチアの講堂で開かれた詔勅伝達式での様子からも判る様に、皇室に対する崇敬心は、彼を襲撃した特行隊員と変わらなかった。 が、襲撃決行者たちは、そういうことは全く知らなかった。事前に語り合う機会があったら、むしろ親密な間柄になったのではあるまいか。 野村宅から、特行隊の五人は分散して引き上げた。本家、谷口、上田は二日後に潜伏先で逮捕された。 蒸野、山下は逃亡した。この二人と決死隊の吉田、北村、日高の計五人が、市街地や近郊に身を隠した。 前記した押岩の話では「目的達成後は自首する」ということになっていた。が、目的を達成できなかった決死隊はともかく、特行隊の場合は違っている。成り行きであったろうか。 出なかった決起趣意書 四月一日事件の経緯は以上であり、押岩談話の中にある、 「コロニアの指導者が軽々しく敗戦認識運動を起こし、しかも、その結果起こった乱れ、堕落、不祥事という憂うるべき事態を収拾できないでいる…そのだらしなさを怒り、彼らの中心人物をヤッテ、覚醒を促そうとした」 という決起の趣意は、全く世に伝わらずに終わった。 指導者たちが覚醒した事実もない。 大勢の人間が命をかけて、しかも他人の命まで奪ってやったことが、無駄になってしまったのである。 それだけでなく、藤平正義たち認識運動の実務の中心人物、DOPS、新聞により、事実とは全く違う「日本の戦勝を狂信する秘密結社臣道連盟の特攻隊によるテロ」という事件像が、作り上げられ、信じられ、根付いてしまった。 これは、襲撃者側から決起趣意書が出なかったことに原因がある。 筆者は、この点を押岩に質したことがある。返事はこうだった。 「そういう(決起趣意書を出す)ことは、考えなかった」 という返事だった。 筆者が、さらに、 「それでは、決起の趣意が正確に世に伝わらないのでは…」 と質問を重ねると、押岩は、 「それはそういうことになるが…」 と呟いたまま、沈黙した。 趣意書を出さなくても、指導者たちは気がつくと思っていたようだ。 他の同志たちも同様に思っていたのであろう。 つまり、襲撃側も、出すべき決起趣意書を出さなかったという状況誤認を犯していたのである。

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