<創刊企画「大韓民国トリガー60」⑲>“共産主義者”を疑われた朴正熙、反共を国家理念とした

1961年5・16軍事政変(日本では「5・16軍事クーデター」)直後、ソウル市内に整列した朴正熙(パク・チョンヒ、中央)、朴鐘圭(パク・ジョンギュ、左)、車智澈(チャ・ジチョル、右)。朴鐘圭と車智澈は朴正熙の最側近で、のちにいずれも大統領警護室長となる。[中央フォト] ◇大韓民国「トリガー60」⑲ 5・16軍事政変 朴正熙(パク・チョンヒ)時代の評価は賛否が分かれる。政治的立場が異なれば尚更だ。だがひとつだけ確かなことは、朴正熙時代を経なければ今日の大韓民国はなかったという点だ。韓国現代史に深い足跡を残した朴正熙時代は、周知の通り1961年5・16軍事政変(日本では「5・16軍事クーデター」)で始まった。 1961年4月21日:クーデターは第2軍副司令官の朴正熙少将が主導している。陸軍指揮官らは、政治家が腐敗し無能だと見ている。 23日:陰謀は陸軍、学生、改革派の支持を得ている。 24日:軍部陰謀に関する張都暎(チャン・ドヨン)陸軍参謀総長の見解。朴正熙を逮捕したいが証拠が不十分。逮捕すればクーデターを誘発する恐れがある。 これは5・16が起こる直前、米中央情報局(CIA)韓国支局がワシントン本部へ報告した内容だ。つまり、事前に計画は知られていたわけだ。それにもかかわらず、国軍60万人、在韓米軍5万6000人が存在する国で、わずか3600人の兵力だけでクーデターは成功した。5・16の中心人物だった金鍾泌(キム・ジョンピル)は「革命は数ではなく意志が重要だ」と語った。彼の言う“意志”が政変勢力のものであることは言うまでもない。だが、5・16の成功には「意志の欠如」も大きく作用した。クーデターを阻止しようとする意志が、誰にもなかったのだ。 1950年代後半になると、陸軍士官学校を卒業した若い領官級の将校たちの間で不満が鬱積(うっせき)していた。特に軍内部の派閥抗争をめぐってだ。若い将校たちの目には、各派閥の頂点に立つ数人の将軍は粛清の対象に映った。将軍が退かないことで生じた人事停滞への不満もあった。金鍾泌陸軍本部情報部隊行政処長(中領)をはじめとする領官級の将校たちは、将軍の退陣を公然と求める「整軍運動」に乗り出した。金鍾泌の妻の叔父である朴正熙は将軍だったが、領官級将校から支持を得ていた。彼自身も上官の宋堯讚(ソン・ヨチャン)陸軍参謀総長に退任を求めたことがあった。 社会も混乱していた。あちこちでデモが絶えず、ついには「デモ反対のためのデモ」まであった。経済成長率は1959年の5.7%から1960年には2.4%へ低下した。「整軍」を訴えた軍部改革派は、この状況を見て社会改革まで夢見たのではないだろうか。 ◇金日成(キム・イルソン)、1961年3月「南韓軍部の反乱可能性」 朴正熙と金鍾泌は1961年2月にクーデターを決意した。その計画はさまざまな情報網に引っかかった。北朝鮮でさえもその気配を察した。1961年3月31日、北朝鮮駐在中国大使館が北京に送った電文には「金日成が南韓軍部内の反乱可能性に言及した」という内容がある。だが内閣首班の張勉(チャン・ミョン)首相は、このクーデター情報をこれまで何度かあった整軍の動き程度に軽く受け止めていた。 5月16日未明、クーデターが起きた。漢江(ハンガン)人道橋で憲兵隊と銃撃戦があっただけで、それ以上クーデターを阻止しようとする勢力はなかった。政府と軍を率いて阻止にあたるべきだった張勉は、その日午前4時にクーデターの知らせを受け、恵化洞(ヘファドン)の修道院に身を隠した。 その朝、張勉は駐韓米大使代理のマーシャル・グリーンに直接電話をかけ、遠くないところに避難していることを伝えた。午前11時ごろ、グリーンはカーター・マグルーダー在韓米軍司令官兼国連軍司令官と共に、象徴的国家元首の尹潽善(ユン・ポソン)大統領に会った。マグルーダーは李翰林(イ・ハンリム)司令官の第1軍を動員してソウルを包囲するクーデター鎮圧案を提示したが、尹潽善は反対した。「流血事態が発生する可能性があり、国軍同士が交戦すれば北朝鮮が南侵する恐れがある」という理由だった。 しかし尹潽善の言葉を額面通り受け取れないほど、雰囲気は微妙だったようだ。面談直後、マグルーダーとグリーンがそれぞれ本国に送った報告にはこうある。「尹潽善は、政治的ライバルの張勉を排除し、新しい政府を樹立する受け入れ可能な方法としてクーデターを見ているようだった」(マグルーダー)、「尹潽善は張勉政権の無能と腐敗について語り、挙国一致内閣の必要性を強調した。現政府への不満と幻滅が広く蔓延していると述べた」(グリーン)。筆者の見方では、尹潽善はクーデター勢力が軍に復帰すれば、自分を中心とした民間政府が成立すると予想していたのではないかと思う。 マグルーダーは鎮圧案を提示したが、米国政府の考えは違った。16日午前10時18分、マグルーダーは本国政府との協議もなく、クーデターに反対する声明を発表した。尹潽善に会ったのはその直後だった。そして数時間後、マグルーダーに米国政府の公式指針が伝えられた。「共産主義侵略に関する韓国の防衛任務以外については、これ以上声明を出すのを避けること」。 当時、米国の最優先目標は共産主義の拡大阻止だった。その点で張勉政権は頼れるパートナーではなかった。駐韓米国経済協力処(USOM)のヒュー・ファーリー副処長は「1961年2月現在の韓国の状況」報告書で「張勉政府の職権乱用・腐敗・無能が韓国を危機に追いやっている。共産革命のような極端な事態が起こるかもしれない」と記した。 米国が懸念したのは朴正熙の思想だった。朴正熙は軍部内の南朝鮮労働党(南労党)組織責任者の疑いで1948年に逮捕され、無期懲役を言い渡されたが、刑が執行停止となり再び軍に戻った。このような前歴のため、5・16以降、米国は朴が反米・共産主義者ではないかと疑った。それを意識してか、朴正熙は革命公約第1条を「反共を国是の第一義とし、反共体制を再整備・強化する」と定め、クーデター直後の16日午前、容共(共産主義を容認する)勢力の摘発を指示した。最終的に5月18日、チェスター・ボウルズ国務次官は「朴正熙は反共・親米的だ」と評価するに至る。 4・19革命を成し遂げた市民も、5・16を支持する立場を示した。李承晩(イ・スマン)に対抗して民主主義を唱えた進歩雑誌『思想界』は6月号にこう記した。「5・16革命は(…)危急の民族的現実から見れば不可避なことである(…)無能で姑息な与党と政府が遂行できなかった4・19革命の課題を、新しい革命勢力が遂行するという点で、我々は5・16革命の積極的意義を求めざるを得ない」。 手続き的正当性を欠いた5・16は、このように時代の混乱、張勉の逃避、尹潽善の傍観、米国の容認、市民の期待が重なり、朴正熙時代を開く「トリガー(決定的契機)」となった。 その後18年間の朴正熙時代を特徴づける表現は「高速成長」と「独裁」であろう。成長における朴正熙の役割は否定できない。政府が強力に主導した経済開発は威力を発揮した。当時蒔かれた重化学工業や輸出産業の種は、朴正熙時代以降も韓国経済を牽引(けんいん)するエンジンとなった。 ◇「漢江の奇跡は国民の力量を最大限投入した結果」 だが、大統領の指導力だけが全てではない。豊かな暮らしがしたいという国民の意志、安く質の高い労働力、国際的好況も欠かせない要因だった。米国の歴史学者カーター・エッカートは「漢江の奇跡は朴正熙の優れた資質に負うところも大きいが、何よりも国民の力量が最大限結集され投入された結果だ」と評価した。 高速成長という光によって、増大した対外債務、二桁台の物価上昇率、貧富の格差、踏みにじられた労働人権など、濃い陰も同時に現れた。所得が増え、意識が高まるにつれ、国民は成長の背後にある独裁の影を強く認識するようになった。1963年と1967年の大統領選挙に続く1971年の三選改憲のときまでは、「私をもう一度選んでください、これが最後です」(1971年4月25日ソウル遊説)という言葉もある程度通じた。だが1972年の10月維新は、朴正熙の政治的正当性を根こそぎ押し倒した。朴正熙は「自分でなければならない」と考えたのかもしれないが、国民の立場は「もうあなたではダメだ」だった。1974年2月、CIAが作成した文書にはこうある。「抵抗は朴正熙政権の特定の政策ではなく、朴本人と彼が樹立した維新体制に集中している。深刻なほど多くの国民が抵抗している」。 抵抗はますます激しくなった。1979年10月、野党・新民党の金泳三(キム・ヨンサム)総裁を議員職から除名したことが引き金となり、釜山(プサン)・馬山(マサン)地域の市民が激しく立ち上がるなど(釜馬抗争)、各地でデモが続いた。結局、10月26日、中央情報部長の金載圭(キム・ジェギュ)が宮井洞(クンジョンドン)の安家(特殊情報機関などが秘密維持のために利用する一般家屋)で銃の引き金を引いた。社会の混乱の中、銃声で幕を開けた朴正熙政権は、再び極度の混乱の中で銃声により幕を閉じた。 李承晩と朴正熙の長期執権は、その後7年単任制(第五共和国)、5年単任制(第六共和国)という憲政体制を生んだ。最近では、1987年体制である5年単任制について改憲論議が浮上している。 李完範(イ・ワンボム)/韓国学中央研究院教授

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