8月15日は、終戦から80年という節目の日です。日本人からすれば「敗戦後80年の夏」ですが、アジアの国々からすると「日本との戦争に勝って80周年」「日本の支配から解放されて80周年」と位置付けられます。8月11日放送のRKBラジオ『田畑竜介 Grooooow Up』に出演した、東アジア情勢に詳しい元RKB解説委員長で福岡女子大学副理事長の飯田和郎さんが、日本が50年間植民地として統治した台湾の「戦後80年」を考えました。 ■「大正11年生まれ」が語る、日本人としてのアイデンティティ 先日、台湾北部の港町・基隆(キールン)に住む楊馥成(よう・ふくせい)さん(103歳)に電話でインタビューする機会を得ました。 飯田:お生まれは西暦でいうと何年になりますかね? 楊馥成さん:1922年です。大正11年ですね。 楊さんは、ご自身の生まれた年を「1922年、大正11年」と、元号を使って答えました。戦前の台湾で生まれた、いわゆる「日本語世代」の一人で、戦争が終わった1945年、23歳まで日本人として生きてきた方です。 ■日本政府に国籍回復を求め提訴 楊さんは戦後も「自分は日本人である」という思いを抱き続け、驚くべき行動に出ました。自分が日本の国籍を喪失したのは不当だとして、日本国籍を有していることの確認を求め、2019年に日本政府を相手に提訴したのです。 この裁判は2022年に東京地裁で棄却されましたが、裁判の結果にかかわらず、100歳を過ぎても「自分は日本人だ」という思いは変わらないといいます。 楊さんは農林学校を卒業後、農業技師として働き、第二次世界大戦中の1943年には自ら志願して軍に所属する職員、いわゆる日本の「軍属」となりました。 飯田:楊さんはシンガポールに行かれたのですよね? 楊馥成さん:そうそう、シンガポール。あのころはね。志願して、どこに派遣されるかわからなかったんですよ。あの時ね。我々は軍属としてどこに派遣されるかわかりませんでしたよ。私は運がいい方で後方部隊に回されたんでね。ははは。 当時、どこに派遣されるかはわからなかったそうですが、楊さんは「運がよかった」と後方部隊に配属されました。一方で、激戦地のインパール(インド)やフィリピンに送られて命を落とした仲間も多かったと語ります。 日本政府は戦後、軍人・軍属だった日本人には恩給を支給しましたが、楊さんのような台湾出身者は「すでに日本の国籍がない」ことを理由に、その対象から外されました。