戦争によって日常が狂わされていく残酷さ 不本意な立場に立たされる教師を描く『二十四の瞳』 【昭和の映画史】

■青春を戦争に捧げ、未来を奪われた若者たち 『二十四の瞳』は小豆島の小学校分校を舞台に、女性教師と子どもたちの戦前・戦中・戦後にわたる交流を、時代背景と共に描いた作品である。昭和27年に(1952年)に出版された同名の原作を、2年後に映画化したものだ。 監督は木下恵介。戦後の日本映画を担った一人で、他にも戦後初のカラー作品である『カルメン、故郷に帰る』や、『野菊の如き君なりき』『喜びも悲しみも幾年月』『楢山節考』『永遠の人』などの、主に抒情的な作品を生み出した。 太平洋戦争中の昭和19年(1944年)には、陸軍省の依頼で『陸軍』という国策映画を撮っている。幕末から日清日露の両戦役を経て、日中戦争に至る60年あまりの年月を、ある家族の三代記を通して描いたものである。 出来上がった映画は陸軍が意図した設定通りではあるものの、細部に戦意高揚とは言えない場面が出てくる。物語の全体に、何か痛ましい感じが流れているのだ。重要なのは最後の場面である。田中絹代演じる母は、悲しくなるから出征する息子の見送りにはいかないと、一度は家に残る。しかしラッパの音が響いてくると、いてもたってもいられなくなって家を飛び出す。 そして出征していく隊列の中から息子を探し出し、その横を歩き始めるのである。最後の最後で、この映画は戦意高揚路線から逸脱した。この場面は10分近い長回しで、大勢のエキストラを使い、博多の中心街を博多連隊が行進する圧巻の映像である。それだけに、息子を心配する母親の心情が強く浮き出ることになった。 「男の子は天子様からのお預かり者」という以前の言葉も、この最後の場面で吹き飛んでしまう。当然、陸軍は怒った。それ以前にも木下は、「女々しい映画ばかり作る」と軍人に殴られたことがあった。それでも国策映画の制作を依頼したのは、力量を評価する軍人がいたのかもしれない。 戦後の木下は、陸軍に嫌われた抒情性を大いに発揮して、多くのファンを獲得した。この『二十四の瞳』でゴールデングローブ賞外国語映画賞を受賞、『楢山節考』はベネチア国際映画祭に正式出品され、『永遠の人』はアカデミー外国語映画賞の候補になった。 『二十四の瞳』は小豆島という、首都から遠く離れた地に視点を定め、時代の波が押し寄せてくる様子を淡々と描いている。物語は昭和3年(1928年)、張作霖爆殺事件が起きた年に、若い新任の女性教師が岬の分校に赴任してくるところから始まる。 さっそうと自転車に乗って登場した大石先生に、村人は驚く。眉をひそめる人間もいるが、大石は気にしない。張り切って生徒の出席をとる。子どもたちは大石をもじって「小石先生」と呼んだ。 時代は昭和の大不況下で、家庭の格差も浮き彫りになる。修学旅行で金毘羅参りをすることになるが、参加できない子もいるし、いつの間にか学校に来なくなった子は参道の店で働いていた。 やがて卒業が近づくと、高等小学校に行く子、丁稚奉公に出る子など進路が分かれる。国民の7割が、高等小学校まで含めた小学校卒だった時代だ。戦時色が強くなってきて、下士官になりたいという子も出てきた。大石は複雑な心境になる。 また、同僚が些細な理由でアカ、つまり社会主義者の嫌疑をかけられ、逮捕されるという出来事も起きた。他の同僚たちは「ばかになるしかない」と言う。疑問を感じた大石は授業でその話をしたため、校長から注意を受ける。 この校長の描写が秀逸なのだ。校長は軍国主義者ではない。ただ臆病なだけだ。厄介ごとに巻き込まれたくない、軍人に目をつけられたくない一心なのである。おそらく過半数の国民はこうだったのではないだろうか。 しかし、地域を仕切っていたのは在郷軍人会や国防婦人会、それに時流に乗る人々だった。国家の意向を背にした大きな声に、恐れをなして何も言えなかったのだろう。大正生まれは天皇を、現人神だとは思っていなかったという証言がある。しかし教育の成果で、いわゆる昭和一桁世代は純粋な軍国少年少女に育った。大石はまさに、その時代に教壇に立つことになったのである。 大石の息子もまさにその世代で、軍人になりたいと言い、戦争を嫌がる母親を弱虫だと決めつけた。そんな時流に嫌気が刺した大石は教壇を離れる。やがて満州事変は日中全面戦争に拡大し、小豆島からも若者たちが出征していく。 その描写が見事なのである。田畑の中を、幟を持って歌いながら行列が進んでいく様子を延々と長回しで見せ、説明なしに時代の転換を実感させる。そしてついに、教え子たちが出征していく日が来る。 これは戦後日本映画の特徴の一つなのだが、この映画には歌があふれている。子どもたちが歌う文部省唱歌は本当に心がなごむ。その歌が少しずつ変化していくのだ。文部省唱歌の代わりに、『暁に祈る』『露営の歌』といった軍国歌謡になっていくのである。 出征していった男たちは骨となって、あるいはただの石ころになって帰ってくる。その葬列もまた田畑の中を延々と続くのである。船員だった大石の夫も徴用されて戦死した。教え子の多くもまた戦死する。最後のシーンは涙なくて観られない。静かな反戦映画の名作と言われる所以である。 原作者の壺井栄は高等小学校卒業後、働きに出た。当時、多くの日本人が歩んだ高等教育とは無縁な人生だった。そうした庶民感覚あふれる原作に、木下恵介の抒情的で人道主義的な作風が合致して高く評価された。 主演の高峰秀子は言うまでもなく、戦後日本映画を担った国民的女優である。子役からスタートして大成功し、幅広い役柄を演じた。『二十四の瞳』では教育に情熱を捧げ、子どもたちに惜しみない愛情を注ぎながら、戦争によって不本意な立場に立たされる教師像を作り上げた。 実際には少なからぬ教師が軍国主義教育を担い、教え子を戦場に送り、銃後の担い手に育てた。私は個人的に、文部省(当時)の戦争責任が問われなかったことに疑問を持っている。最近『外務官僚たちの大東亜共栄圏』(新潮選書)という本が出た。文部省と外務省の違いはあるが、官庁の戦争責任について考えさせられる。

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