薩長藩閥に“忖度”しない司法改革で名をはせた江藤新平は、大久保利通の「挑発」に乗って士族反乱に手を貸した!?

佐賀の役(佐賀戦争)は、明治7年(1874)、旧佐賀藩士で前司法卿の江藤新平が、郷里の不平士族に担ぎ上げられて起こした明治政府に対する反乱である。反乱軍は佐賀城を乗っ取って気勢をあげたが、大久保利通率いる新政府軍に敗北。捕らえられた江藤は、士族にとって最大の恥辱である除籍処分となり処刑された。江藤の首はさらしものにされたうえ写真に撮影され、みせしめとして全国にばらまかれたという。 江藤の梟首は裁判で決定されたが、あくまで形式的なものにすぎず、実際は大久保による私刑といえるものであった。そう、大久保は江藤を憎んでいたのである。 なぜ、江藤は凄惨な最期を迎えなければならなかったのか。そこには薩長藩閥に忖度しない江藤の一途な政治姿勢があった。 ■薩長藩閥の切り崩しを図る江藤 江藤は佐賀藩の下級武士であったが、苦学して新政府の要職を歴任し、明治5年(1872)、初代の司法卿に就任する。当時、司法省の権限は弱く、地方では大蔵省管轄の地方官が、幕藩時代の代官のように民事裁判を手がけていた。そこで江藤は全国の裁判権を司法省に統一すべく、地方への裁判所の設置を進める。長州出身の大蔵大輔・井上馨はこれを阻止すべく司法省の予算削減を実行しようとしたが、江藤は抗議して辞表を提出。太政大臣・三条実美を味方につけて参議に就任し、予算を確保して井上を失脚させた。 さらに、江藤は御用商人と癒着する井上や陸軍大輔・山縣有朋を汚職容疑で次々と追及した。江藤のねらいは司法権を確立するとともに、明治政府の中枢を牛耳る薩長藩閥から権力を奪いとることにあったといわれる。そのために、まずは長州の悪事を暴いて薩長を分断させ、その後に薩摩を追い落とすというのが江藤の作戦であったらしい。 明治6年(1873)に征韓論(朝鮮を武力で服従させること)が起こった際、自ら大使となって朝鮮に向かおうとした西郷隆盛を、江藤や板垣退助らが支持した背景にも、西郷を引き込むことで薩長の分断を誘う意図があったといわれる。 しかし、江藤らの意図を察した大久保や岩倉具視は、内治の整備を優先すべきと主張し、明治天皇を動かして使節の派遣を中止。反発した西郷は下野し、江藤も板垣らとともに参議を辞職して佐賀に帰った(明治6年の政変)。大久保は盟友の西郷を犠牲にしてでも、江藤・板垣ら土肥勢力を追い落としたいと考えていた。その思惑どおりの結果になったわけである。 ■大久保の挑発を受けて立ち上がる江藤 こうした政府の混乱には、江藤と大久保の対立が少なからず影響していたといわれる。なぜ2人はかみ合わなかったのだろうか。 まず、めざす国家像が違った。民権を主張した江藤がヨーロッパの共和制に親近感を抱いていたのに対し、大久保は立憲君主制こそ日本にふさわしいと考えた。 2人のキャラの違いも大きい。大久保は言葉遣いが重厚ではあったが、口達者な方ではなかったらしい。一方、政府最高の思想家であった江藤は、よどみなく自らの主張を述べ、理路整然と議論を展開するスキルに長けていた。大久保は議論の場で江藤にやりこめられるたびに、憎しみの一念を募らせていったことと思われる。 だが、こうした卓越した能力が江藤を自信過剰にさせていたのかもしれない。当時、佐賀では不平士族が征韓党・憂国党などの結社を組織し、県庁を支配下において士族による佐賀の独占を目指していた。江藤の下野を知った征韓党の幹部は、彼を指導者に迎えようとした。これに対し、板垣は「今帰れば引き込まれるぞ」と反対したが、自信満々の江藤は「不満を抱く若い者たちを説諭してくる」といって帰郷してしまう。 これを好機ととらえたのが大久保だった。佐賀の不平士族を暴発させるため、土佐出身の岩村高俊を権令(ごんれい/県の長官代理)に任命し、政府軍とともに佐賀に派遣した。佐賀の士族に対する明らかな威嚇である。これには、さしもの江藤も怒りを禁じえなかった。江藤は征韓党と合流し、憂国党に招かれていた同郷の島義勇とともに郷里を守る戦いの先頭に立つことを決意する。 それでも江藤は慎重だった。政府軍の駐屯する佐賀城に使者を送り、「軍隊を連れてきたのは佐賀の士族を皆殺しにするためか」と問うた。これに対し岩村は「答える必要などない」と吐き捨てて席を立ったという。 実はこうした展開も、大久保は織り込みずみであったといわれる。傲慢で横柄な岩村を送り込めば、必ず佐賀藩士を侮辱し、彼らを決起させると考えたのだ。 意を決した江藤と島は征韓党・憂国党とともに岩村の政府軍を破って一時、佐賀城を占拠した。しかし、大久保率いる政府軍が到着するとたちまち劣勢となり、朝日山・田手川の戦いで続けざまに敗北。江藤は鹿児島に下って西郷の助力を求めたが叶わず、四国に逃れたところで逮捕される。 江藤はそれからわずか半月ほどで梟首を言い渡され、即日処刑された。自身の正義を信じる江藤は死刑にのぞんで「ただ皇天后土のわが心を知るあるのみ」と3度唱えたという。 一方、大久保は世間の非難を意に介することもなく、判決の際の江藤の姿をさげすみ「江藤の醜態笑止なり」と日記に記した。

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