2000年前のユダヤの大地に自分の足で立ち、イエス・キリストとして物語をたどっていく――そんなコンセプトのオープンワールドシミュレーション『I Am Jesus Christ(私はイエス・キリストです)』が、本日4月2日にSteam向けにリリースされます。新約聖書に描かれた物語をもとに、プレイヤーは一人称視点でイエスとなり、その歩みと出会いを体験していきます。 ゲーム内では、ヨルダン川での洗礼から荒野での誘惑、人々の病を癒やす奇跡、ガリラヤ湖の上を歩く場面や嵐を鎮める奇跡、群衆5,000人にパンと魚を分け与える出来事まで、30種類以上の「奇跡」がゲームプレイとして実装されています。エルサレムやガリラヤといった聖地を行き来しながら、弟子たちをはじめとする60人以上の人物と関わりつつ、「最後の晩餐」など聖書でおなじみの場面が再現されていきます。 こうした要素を通じて、『I Am Jesus Christ』はイエスの生涯を題材にしながらも、単に奇跡を行うだけのアクションではなく、「聖書の物語の中に入り込み、その時代と空気を追体験する」ことに重きが置かれた、“キリスト・シミュレーター”として仕上げられています。 イエス・キリストとは せっかくの面白いゲームの発売なので、ある程度前情報があった方がより楽しめるかと思います。そこで、イエス・キリストの生涯、その魅力をまとめてお届けします。あまり宗教チックにならず、「新約聖書」に基づいてまとめました。 イエス・キリストの生涯は、西暦1世紀前半の出来事とされています。イエス・キリストの生涯は、ローマ帝国支配下のユダヤ地方を舞台に、ベツレヘムでの誕生からエルサレムでの十字架と復活へと展開します。 ヘロデ大王の迫害を避けてベツレヘムで生まれたイエスは、北部ガリラヤ地方の小村ナザレで成長し、三十歳前後でヨルダン川で洗礼者ヨハネから洗礼を受け、公生涯(イエスが一般に人前に出て、教え・奇跡・弟子養成を公然と行っていた期間)に入ったと理解されています。 その後、およそ三年のあいだ、ガリラヤ湖周辺のカペナウムやナザレを拠点に説教と癒しの業を行い、やがてエリコやオリーブ山を経てエルサレムに上り、過越祭の時期に最後の晩餐、逮捕、裁判、ゴルゴタでの十字架刑へと至ります。 あらかじめ預言されていたように三日目の復活と弟子たちへの顕現、オリーブ山からの昇天によって、この地上で目に見えるイエスの歩みはいったん完結し、その全体像は新約聖書の4つの福音書(マタイ・マルコ・ルカ・ヨハネ)により、歴史と信仰の証言として伝えられています。 このような歴史的・地理的舞台の上で、新約聖書はイエス・キリストをどのような存在として描いているかを、以下で整理してみます。 4つの福音書と、イエス自身は何も書かなかったこと 新約聖書の中心には、マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネの4つの福音書がありますが、いずれもイエス本人の著作ではなく、弟子やその同労者たちによる証言の集成です。 イエスは自分で教えを体系的な書物にまとめたわけではなく、その言葉と行い、十字架と復活の出来事が、まず口頭で伝えられ、後に4人の福音書記者によって異なる視点と目的から記録されたと考えられています。 そのため、4つの福音書は同じイエスを証言しながらも、強調点が異なります。たとえばマタイは旧約預言の成就としてのメシア像、マルコは苦しむ神の僕、ルカはすべての人の救い主としての人間的な側面、ヨハネは「永遠の神の子」としての神性を強く打ち出しています。 一人の人物を4方向から撮影した写真のように、4つの福音書が重ね合わさることで、イエス・キリストの立体的な人物像と使命が浮かび上がるというのが、新約聖書の構造です。 「30歳から約3年間」といわれる公生涯 ルカ福音書は、イエスが公の活動を始めた時、「およそ三十歳」であったと記しています。 さらに、ヨハネ福音書に登場する過越祭の回数などから、多くの研究者と教会の伝統は、イエスの宣教活動の期間を「約三年間」と見なしてきました。 つまり、三十年ほどの「隠れた年月」(ナザレでの生活)に対し、公に人前に立って教え、癒し、弟子を集めた期間は、驚くほど短い「三年間ほど」にすぎない、というのが一般的な理解です。 その短い公生涯の間に、イエスはガリラヤ、サマリア、ユダヤを巡り、「神の国が近づいた」と宣言しつつ、会堂で教え、病人を癒やし、悪霊を追い出し、パンの増加や湖上歩行といった奇跡を行ったと福音書は証言します。 神の子でありつつ、人間と同じ苦しみを負う方 キリスト教においてイエスは、「神の子」でありながら、完全に人間として生まれ、人間と同じ空腹・疲労・悲しみ・孤独を経験した方だと告白されます。 福音書が伝える荒野での誘惑の場面では、イエスは断食で飢えた状態の中、悪魔から「空腹ならば石をパンに変えよ」「もしあなたがわたしの前にひざまずくなら世界の全てを与えよう」といった誘惑を受けつつ、なお父なる神への信頼と従順を貫いたと描かれています。 また、イエスは病人や罪人、社会から疎外された人々を見て深く「憐れんだ」と繰り返し記され、彼らに近づき、触れ、共に食卓を囲んだ存在として語られます。 神学的には、イエスが「人間と同じ弱さと試練を味わいながら罪を犯さなかった」ことにより、私たちの苦しみを内側から理解しつつ、それを超えて救いへと導く「大祭司」=仲介者となったと理解されています。 旧約から続く物語の頂点としての十字架と和解 新約聖書は、イエス・キリストを「神の長子」「神の子」と呼び、旧約聖書時代に予言されていたメシア(救い主)として位置づけます。 イザヤ書など旧約の預言には、人々の罪を背負って苦しみを受ける「主の僕」のイメージがあり、キリスト教はこれがイエスの受難と十字架において成就したと読み解いてきました。 同時に、創世記のアダムとエバの罪によって人間は「原罪」を負い、神との親しい交わりと「楽園」から遠ざかったという物語が、聖書全体の背景にあります。 キリスト教の贖罪理解によれば、神の子イエスは、人間全体を代表してその原罪と具体的な罪の結果である「死と神からの断絶」を十字架上で自分のものとして引き受け、その身代わりの死によって、人間が神と和解する道を開いたとされます。 そのイエスが3日目によみがえったという福音書の証言は、単に「良い教えの先生が殉教した」というレベルを超え、「罪と死に対する決定的な勝利が、すでにこの世界の中で始まった」という宣言として受け取られてきました。 こうして、新約聖書のイエス・キリストは、「神の長子として旧約以来の約束されたメシアであり、アダムとエバにまでさかのぼる罪の歴史を自ら背負って十字架にかかり、人間と神を再び結び合わせた方」として、一つながりの救いの歴史のクライマックスに立つ存在として描かれているのです。 単なる「奇跡を行うアクション」ではない『I Am Jesus Christ』の魅力 イエス・キリストの生涯とその魅力を押さえたうえで『I Am Jesus Christ』をプレイすると、単なる「奇跡を使うアクション」ではなく、聖書の物語を体験する“時間旅行”のような没入感がより強く感じられるはずです。イエスの歩みを知っているからこそ、荒野の誘惑や湖上歩行、そして十字架の瞬間が、より深く心に残る――そんな一歩先の体験を、ゲームを通して試してみてはいかがでしょうか。 『I Am Jesus Christ』は、PC(Steam)向けに本日4月2日より配信です。