ブラジル日系社会=『百年の水流』(再改定版)=外山脩=(142)

保安課とは、州政府の公共保安局傘下のDOPS(政治社会保安部)のことであろう。 驚くなかれ、そこに米英の領事が乗り込んで指令していたというのだ。こうなると、陰に隠れての工作ではなく、表舞台に現れての堂々たる作戦指揮である。 なお当時、公共保安局の傘下には、幾つかの警察があって(その一つが既出の州警兵)、いずれも枢軸国人の取締りに当たっていた。 その中心がDOPS=ドップス=だった。 Departamentode Orden politica e Social の略で、訳せば政治社会保安部である。Orden politicaの部分だけをとってオールデン・ポリチカとも呼ばれた。 政治犯を取り締まった警察である。どこの州にもあった。 もう一つ参考になる資料がある。一九七九年にサンパウロ人文科学研究所が編纂した『下元健吉人と足跡』という書物がある。これに、開戦時、コチアの職員であり、後に専務理事になった谷垣皓巳が一文を寄せているが、その中に、 「(当時)当国の政情は完全に北米の統制下にあったと云っても過言では無いと思うが、サンパウロ州の政治警察には、北米の総領事が…(略)…詰め切っている有様で…」 という部分がある。(文中、政治警察はDOPSのことである) こうなると、米英の領事が交互に出張どころではなく、米の総領事が詰め切っていたことになる。 新聞だけでなく警察も、米英側に握られていたのである。無論、巨額の資金が流れていた筈である。当時、警察を組織的に動かすには、そういう資金が必要だった。 日本政府、 厳重に抗議 警察の邦人に対する迫害の報は、東京に伝わり、日本政府のブラジル政府向け厳重な抗議となった。 岸本書によれば、一九四二年三月二十一日、東京ラジオが、こう放送した。 「ブラジル政府は…(略)…在留同胞に対して非常なる圧迫を加え、東京からのラジオを聴いていたというだけで十人の同胞が投獄され、公認の地図を買ったに過ぎないのに獄舎に繋がれて行き、また今までに家宅捜索の際に金銭を強奪された額が二十五万円に及ぶのであります。 日本移民が今日まで三十有余年の間、ブラジルの産業の開発に、文化の進歩に、如何に大なる貢献をしてきたか、特に農業面におきましては、日本移民無くしては今日の発展を見ることは出来なかったのであります。 この忠実善良なる日本移民に報いるに言語に絶する弾圧、苛酷極まる取扱いをなしつつあるのに対し、日本政府は去る七日、中立国たるスペインの総領事館を通し抗議を申し込んだのでありますが、何らの回答にも接しません。 さらに十四日、厳重抗議を申し込んだのでありますが、これまた未だに、何等の回答にも接しませんので、日本政府は遂に重大決意をすることに致しました。 今後如何なる最悪の結果を生じるとも、その責任はブラジル政府が負うべきであります」 右の被害状況に関する情報蒐集や日本への送信の方法については、資料を欠く。 この抗議が利いたのであろうか、迫害は止んだ地域もあった。が、そうでない地域もあった。 警察に連行され留置された者は、サンパウロ州の場合。四月末時点で二千名に達した、という情報も流れた。 被害は、日系社会と親しいブラジル人にも及び始めた。ジアリオ・サンパウロ紙のマリア・テレーザ記者は、ドイツ系スパイの容疑で逮捕された。が、その容疑は表面上の理由で、実際はサンパウロ市内の日本人の知識人と親しいためと言われた。 リオの日本大使館の嘱託であったアレシャンドレ・コンデルも日本のスパイ容疑で留置された。 一般人の敵視・ 暴行 新聞報道や警察の動きは、一般のブラジル人の日本人に対する敵視感を煽り、暴力行為も始まっていた。 本稿七章で登場したパウリスタ延長線のポンペイアに居った白石姉妹やその家族も、被害に遭った。時期は、正確には記憶していないというが、多分、日本政府の厳重抗議の前頃であったろう。 姉の静子は当時十一歳、妹の悦子は八歳だった。 以下は、二人から筆者が二〇〇九年に聞いた話である。 静子は、当時ポンペイアには小学校しかなかったので、中学校は、その東方に在るマリリアまで通っていた。 「悪い生徒が待ち伏せしていて、日本人を殴りました。怪我をした子もいました」という。

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