10年前、20年前、30年前に『FRIDAY』は何を報じていたのか。当時話題になったトピックをいまふたたびふり返る【プレイバック・フライデー】。今回は30年前の’95年6月2日号掲載の『総力取材! 「オウム帝国」が潰えた日 麻原彰晃逮捕! 虚像が堕ちた「長い一日」』を紹介する。 坂本弁護士一家失踪、松本サリン事件、仮谷さん拉致監禁致死事件…’95年3月、オウム真理教への数々の疑惑への警察の捜査網は確実に狭まっていた。強制捜査の直前の3月20日に起こした地下鉄サリン事件は“最後の悪あがき”だった。3月22日以降、次々に教団施設への強制捜査が行われて幹部たちも逮捕されていった。そしてついに訪れた教祖・麻原彰晃逮捕の一日を編集部が総力で追った記事だ。(《》内の記述は過去記事より引用。年齢・肩書はすべて当時のもの)。 ◆4時間にわたる捜索でようやく確保 《16日午前5時35分、未明からの豪雨が途切れ、薄明かりのさしてきた山梨県上九一色村。150人以上の大報道陣が見守る中、鋭いエンジンカッターの音が鳴り響き、固く閉じられた「第6サティアン」のドアから火花が散った。麻原彰晃教祖(40)逮捕に向けた“Xデー”幕開けの瞬間である。15分後、捜査員が建物になだれ込む。内部にいた信者が外に出されるが、抵抗する様子はない》 同時に、同村に点在する他のオウム真理教施設や静岡県富士宮市の富士山総本部、南青山の東京総本部など、全国約10ヵ所で捜査員2000人を動員した強制捜査が行われた。午前6時30分、村山富市首相らが官邸に集まり、緊急閣僚会議が開かれた。すでにオウム事件は国家的一大事だったのだ。 一方、捜査員が突入した現場は膠着状態にあった。中で何が起こっているのかわからない報道陣はただ、ひたすら待つばかりだった。電気が切られているため建物内部は真っ暗なうえに複雑な構造。さらにドアが鉄板で補強されるなどしており、捜査は予想以上に難航した。「ここにはいないのではないか」と捜査員の間からも声があがっていたという。だが、突入から約4時間後、そのときは訪れた。 ◆まるでマラソン中継のような”移送劇” 逮捕の瞬間を、当時の記事ではこのように記している。 《9時45分、捜査開始から約4時間後、ついに麻原教祖が発見された。麻原教祖は、3階の天井から宙づりの形となった二重壁の隠し部屋の中で、一人瞑想していた。捜査員に促されると、無言ではしごを降りてきた。健康状態の悪化が伝えられていたが、医師が脈をとろうとすると「私は健康です、触らないで下さい。弟子にも触らせていない」と拒否したという》 にわかに霧が立ちこめはじめた午前10時30分、報道陣が待ち受ける中を麻原教祖の乗った紺のワンボックスカーがパトカーに先導されて第6サティアンを出発した。 《ストロボが嵐のように光り、レポーターがマイクに向かって絶叫する。世間を恐怖に陥れた「虚像」麻原教祖が、富士のすそ野に築き上げた“オウム帝国”から引きずり出されたのだ。 沿道で待ち受ける各局のテレビカメラが、まるでマラソン中継のように、その行方を追う。麻原教祖はこころもち顎を上げ、目をつぶって瞑想したままだ。車が河口湖インターから中央自動車道に入ると、8~9機のヘリが上空から教祖の姿を撮ろうと、超低空飛行で追尾した。テレビ中継を見たのだろうか。護送車が通過する歩道橋の上は、どこも見物人がすずなりだ。 午後0時35分、約150人の報道陣が待ち構える中、麻原教祖を乗せた車は警視庁副玄関に到着した》 午後には取り調べに対して麻原が「目の見えない私がそんな事件を起こすでしょうか。信じてもらえないでしょうが」と、容疑を否認したという話が伝わってきた。また、午後6時にはオウムの南青山・東京総本部で上祐史浩緊急対策本部長が記者会見を開き、「逮捕は不当である」と訴えた。 この日の一斉捜査では逮捕状が出ていた41人のうちサリンを製造したとされる「化学班」のメンバーを中心に15人が逮捕された。しかし地下鉄サリン事件の実行犯の一部などは依然として逃走中だった。「麻原逮捕」は、まだオウム事件全容解明に向けた〝終わりの始まり〟にすぎなかったのだ。 ◆最後まで真実を語ることなく… オウムへの捜査ではその後も中川智正ら教団幹部の逮捕が続き、’98年の時点で189人の信者が起訴された。一部の元幹部は早い段階で罪を認めて教団の実態や事件の詳細について法廷で説明。オウムが関わった事件の全容が明らかとなっていった。 裁判以降、麻原は本名の松本智津夫で報じられることが多くなる。殺人26人と逮捕監禁致死1人など17の事件で起訴され、‘96年の4月に裁判が始まった。麻原は一貫して「自分は指示していない」と無罪を主張。指示を受けたという元幹部らの証言の中止を要求し、裁判所に拒否をされると突如、英語で話し始めるなど妨害するような行為を繰り返し、退廷を命じられたこともあった。 麻原は17の事件のうち、ほぼすべてをオウムが起こしたことを認めたが、それらは弟子たちの責任で自身は無罪だと主張。’02年2月の公判を最後に何も語らなくなった。そして’04年2月に死刑判決を言い渡される。麻原は控訴したものの、2審で必要な書類を提出しなかったために裁判は打ち切られ、麻原本人の口から真実が語られることなく死刑が確定した。 他の元幹部らの裁判も‘11年11月までにすべてがいったん終了し、13人への死刑判決と5人への無期懲役判決が確定した。さらにこの時点で逃亡していた元信者らの裁判も’18年1月に判決が確定し、オウム事件の裁判は完全に終結することとなった。 麻原彰晃こと松本智津夫の死刑は’18年7月6日に執行された。 東京拘置所が6月末に法務省に提出した診療記録によると、職員の指示に従って規則正しく生活し、食事もよく食べていたとされていた。だが、一方では医師が語りかけてもまともに返事をすることはなく、意思の疎通ができない状態だったとされている。 裁判で「わが国史上、最も凶悪な犯罪者」と検察に評された男の最後はあっけなかった。