ブラジル日系社会=『百年の水流』(再改定版)=外山脩=(234)

ほとぼりが冷めた頃、馬でビリグイに現れたことがある。が、すぐセボロンへ戻った。夫人や養女も、後からそちらへ移動した。松家は養女も貰っていた。 セボロンでも、松家は剣道を教えていたが、仕事は何もしていなかった。生計は夫人や養女が支えていた。 その後、一家はサンパウロへ出、ピニェイロスに住んだ。夫人は生け花の師匠をし、養女は美容院を営んだ。ここでも松家は何もしなかった。 一九六四年に六十三歳で病没した。 つまり十年史の記事とは全く違う。 無論、松家は逮捕もされていない。逮捕されていれば、そして血の旋風を巻き起こしたテロ団の首領であったとすれば、相当の重刑を受け服役した筈である。 当然、資料類に大きく名前が出たり、人の口から口へ語り伝えられたりしたであろう。しかし、その様なことは全くない。 また、松家が遠く北パラナで潜伏していたのであれば、遠すぎてノロエステ線地方の襲撃を指揮できる筈がない。 思うに、剣道を教えたり日本の戦勝を吹き込んだりした若者の中から襲撃者が何人か出たため、松家が指揮していた様に見え、種々の憶測を呼び、そのイメージが、ポ語新聞の記事の中で、化け物の如く膨れ上がっただけではなかったのか━━。 松家が臣道連盟のテロ団結成に際して、この地方の指導者に推されたというのも、その一部であろう。 実際は、松家は大物でもなんでもなく、家庭に於いては、家族を養うことすらできず、戦勝派内でもたいしたことはせず、危ないと思うと、サッサと逃げ出した男なのである。 彼は怒りっぽい性格で、養女にしばしば暴力を振るったという。それでも、もう一人養女を貰っている。夫人の弟を加えて三人である。 どうもオカシナ処がある男だ。 筆者は松家の写真を何枚か見たが、とても、テロ団の首領という感じではなかった。 カーキ色のカッパ 十年史には、四月一日事件の折、襲撃者たちが着用していたカーキ色のカッパを証拠物件として、臣道連盟と結びつけている部分がある。無論、ポ語新聞の訳である。 このカッパは、襲撃現場で見つかった。 事件後、DOPSは臣連の本部を捜索したが、その時次の様なメモを入手した。 「一九四五年九月、推進隊の結成費用として沢井に二五〇クルゼイロ支給」 「一九四五年十一月、推進隊員用合羽購入」 と記されてあった。 これで、 「推進隊という部門が連盟内にあり、名前を(トッコウタやケッシタイに)変えてテロを実行した。 沢井は沢井天城で連盟員であり、テロの指揮をした」 とポ語新聞は断定している。 DOPSの刑事が、そういう意味のことを言ったとも記しているが、果たしてどうか。この程度の材料で本職の刑事が、そこまで断定するだろうか? 沢井天城、本名牛沢鶴太郎は、十二章で触れた様に、四月一日事件の襲撃部隊の協力者である。 が、臣連本部の職員であった佐藤正信は明確に「彼は連盟員ではなかった」と否定している。 またメモの「沢井」が沢井天城であるという裏付けは示されていない。仮に、そうであったとしても、沢井はテロの指揮ができるような男ではなく、気の弱い小人物であったという。従って現実感が伴わない。 証拠とされているカッパも、実はありふれたものであった。日高徳一が、筆者にこう話している。 「あのカッパは確か小笠原の婆ちゃんがビンチ・シンコ・デ・マルソ(衣料品の商店街)かどこかへ行って買ってきてくれた。 当時、カーキ色のカッパは学生やフェイランテが多く使用しており、珍しいものではなかった。 自分は、邪魔になるので、現場に脱ぎ捨ててきた。 事件の後、警察が我々のことを、取り敢えずツルマ・デ・カッパ・アマレーロと名づけて、それを着ている者を片端から引っ張ったので、学生やフェイランテが大層迷惑したそうだ」 ツルマ・デ・カッパ・アマレーロは黄色いカッパのグループの意味である。筆者も昔、そのカッパを使用したことがあるが、黄色にも見えた。 山下博美も、 「あのカッパは、たしか婆ちゃんが買ってきてくれた」 と思い出す。 この二人の話からすれば、襲撃の現場に脱ぎ捨てられていたカッパが、連盟が購入したものと同種であったとしても、それそのものではなかったことになる。

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