誇らし気にこう言ったのだ。 「ツッパンの青年部から、決行者が何人か出た」 筆者はハッとした。青年部が襲撃と連盟の接点であったかもしれない。 山内は、さらに残念そうに、こう続けた。 「(我々の)逮捕が半年先だったら、ワシも行っていたナ…」 逮捕とは、四月一日事件直後の州警察によるそれのことである。山内は、これで連行され、アンシエッタまで流され、動きがとれなくなってしまったのである。 こういう人なら、事件と連盟の関係について、真相を知っていて話してくれるかもしれない、少なくともツッパンに於けるそれは…と期待して訊いてみた。 が、彼が誇るツッパンの青年部から出た決行者とは既述の日高、上崎、水島のことであった。 彼らは連盟とは全く関係なく、行動している。 山内は、最期にこうも言った。 「襲撃はどれも、臣道連盟の組織的・計画的なモノではなかったナ…」 地方支部の青年部の指導者で、その部から、決行者が出たことを誇り、自分も同じ行動をとりたかった、と正直に話している人が、こう言ったのである。偽りはなかろう。 この他、襲撃の協力者の中に、連盟員が居た可能性については、佐藤正信が否定している。 無論、佐藤が知らぬ処で協力していた連盟員が居たかもしれないが、その場合もやはり連盟とは関係なく、そうしていたのであろう。 結局、接点は、何一つ見つからなかった。 逆に次の様な文書を発見した。 一九四六年三月八日、連盟本部が各支部に送った「妄動を押さえる書」なるものである。 この前日、バストスで溝部事件が起きている。その知らせが入ったため、驚き、その種の事件を連盟員が起こすのを防ぐため、この手紙を出したことが判る。 これ以外にも、連続襲撃事件について触れた連盟員の手記の類いを幾つか目にしたが、皆、事件との関係を否定していた。 かくの如くで、筆者は十数年の取材・調査を経て確信した。 (臣道連盟は、やはりシロだ)と。 補筆 これまで臣連に関して、くどくなる程触れて来たが、書き残したことがあるので、もう少し補筆しておく。但し、あくまで理解を深めるための参考資料として…である。 理事長の吉川順治は、一八七七(明10)年、新潟県に生まれた。遺族や連盟関係者に伝わる話では、少年期に志を抱いて上京した。あの山岳地帯を歩いて…である。途中、夜は寺に泊まった。 士官学校に入り騎兵将校となった。 尉官時代に日露戦争が起こり出征した。 戦場で斥候長をつとめていたある日、部下を休ませて一人馬で行くと、敵の騎兵五人を発見した。「よし彼らを片づけて、馬を分捕ってやろう」と突撃した。 が、横から新手の敵騎兵が十騎ほど現れ、白兵戦となった。三、四人を斬ったが、多勢に無勢で頭部に負傷、血が顔に流れてくるので、やむなく退却した。頭には大きな刀傷の痕が残った。 一九二三(大12)年「陸軍内部の人事にはひきの様なモノがある」と退職願を出した。 一九三五(昭10)年、移住。五十八歳であった。八十四歳のお婆さんから五歳の子供まで十人の家族を率いていた。ソロカバナ線ランシャリア駅の近くバルチーラという所に入植した。 が、後にサンパウロへ移った。家族が洗濯店を営んだ。本人は謡曲を趣味とした。 その吉川が理事長となった臣連に加盟した人々の殆どは、いわゆる普通の人であった。吉川の経歴や頭部の傷痕が、彼らの素朴な心をとらえ、人気を集めた。 吉川は戦時中、拘置所に居た時、メモを残している。以下は、その一部要旨である。 ▽在伯同胞は日本民族として、子孫の将来も含めて、今後の方途を策さねばならない。が、近時、日系子女の日本語能力が著しく衰えている。しかし、これに日本語教育を施すことは、ブラジル政府の忌避するところである。 ▽同胞社会は無統制下にある。見苦しい紛争をしたり、徒に私腹を肥やしたり「日本は負けても構わぬ」「陛下に対しても敢えて弓を引く」などと暴言を吐く者もいると聞く。 ▽同胞社会は、この様な情況にあるのに、対策を考え、正しく矯正すべき最高指導者の大使、総領事は国交断絶とともに、尻に帆をかけて逃げ帰ってしまった。真の武士ならば、帰朝命令を受けた時に、直ちに辞職して留まり、同胞と生死をともにしたであろう。もし当国政府が、これを許さざる場合は潔く自決してでも、この国に留まるべきであった。