プロ野球を目指す選手たちの“運命の日”、ドラフト会議。40年前の「KKドラフト」で、当初清原和博を1位指名すると見られていた巨人が、早稲田大学への進学を口にしていた桑田真澄をまさかの1位指名。夏の甲子園のヒーローたちを分けた明暗に、野球ファンは騒然となった。あの日、何があったのか。 * * * 「第一回選択希望選手、読売、桑田真澄、17歳投手、PL学園高校」──。 1985年、11月20日。プロ野球史上最も有名なドラフト会議。司会が発したこの言葉に、誰もが驚いた。 この年の注目は、夏の甲子園で優勝したPL学園のエース・桑田真澄と4番・清原和博の「KKコンビ」。当初、巨人は清原を1位指名すると見られていたが、早稲田大学への進学を口にしていた桑田に直前でまさかの変更。清原は6球団が1位指名して抽選となり、西武が交渉権を得ることに。巨人からの1位指名を熱望していた清原が、涙を流すシーンも話題になった。 「『なんで巨人は清原を指名しないんだろう?』。子どもながらに、まず疑問に思ったのを覚えています」 こう話すのは、著書『キヨハラに会いたくて 限りなく透明に近いライオンズブルー』(白夜書房)で知られる、作家の中溝康隆さん。西武ライオンズが本拠地を所沢に移転した1979年、埼玉県生まれで、当時6歳。その年の夏の甲子園でKKコンビの活躍を見たのが、本格的に野球を見るようになったきっかけだった。 「とくに決勝で2打席連続本塁打、大会5本塁打の清原選手はヒーローでした。『甲子園は清原のためにあるのか!』という実況の言葉も、よく覚えています」 そんな清原が、ドラフト後に涙する姿を見た中溝少年。かわいそうだな……そう思ったという。 「でも一方で、『西武に来てほしいな』という思いもありました。地元のテレビ埼玉だと、西武の試合は試合開始から終了まで、中継するんですよ。『清原選手の全試合、見られるようになるんだな』と」 ■清原の涙の理由は あの日、なぜ巨人は清原を指名しなかったのか。清原のあの涙の理由は、何だったのか。当時飛び交ったさまざまな情報を知るのは、大人になってからだった。かわいそうな清原と、ヒールの桑田。そんな報道が多々あるなか、中溝さんは、「あの日のドラフトで誰が正義なのか、それはわからない」と話す。どういうことか。 「すごく印象深かったのが、西武での1年目のシーズンが始まる前の雑誌のインタビューで、清原選手は『桑田がプロ野球に入って、オレがノンプロでやるなんて、みじめすぎて耐えられない』と語っている。もう、この言葉が清原選手のダイレクトな感情をすべて表しているんじゃないか。巨人に裏切られたというよりは、友人の桑田選手に裏切られたっていう涙ではないかなと感じるんです。ひと言でも『自分も巨人に行きたいんだ』って桑田が言ってくれたら。巨人の1位指名が桑田ではない別の選手だったら、清原選手はたぶん涙は流さなかったんじゃないかと」 でも、だからといって「正義は清原にある」も違う。そう中溝さんは言う。 「あのドラフトについて、人はわかりやすいストーリーに飛びつき、『悲劇の涙』を流した清原選手に感情移入しがちです。でも桑田選手にも、『自分も巨人に行きたいけど、清原選手があれだけ巨人志望を口にしているので言えなかった』という苦しみがずっとあったと思う。清原選手のストーリーはあるけど、桑田選手の側にもストーリーはあるんじゃないか。そこは、子どもの頃から感じていました」 KKそれぞれに、あったはずのストーリー。ではあの日、巨人と西武の球団同士には、どんなストーリーがあったのか。『暗躍の球史 根本陸夫が動いた時代』(集英社)などの著書があるベースボールライターの髙橋安幸さんは、「大前提として、『ドラフト外入団』がまだ存在し、かつ(プロを志望する生徒が、所属する都道府県高等学校野球連盟に提出する)『プロ志望届』がまだない時代だからこそ、起きた出来事だった」として、内幕をこう話す。 「まず、『清原を1位指名する』と見られていた巨人がなぜ、早稲田大学進学を公言していた桑田を1位指名に変えたのか。そこには、西武の『挑戦』があったんです」