《岩波映画製作所の撮影助手として失敗ばかりしていた田原さん。やがて「たのしい科学」という科学番組制作のアシスタントに。この番組が民放で放送されたこともあって、テレビ局と縁ができた》 そのうちに民放各局の番組の構成をアルバイトでやるようになりました。驚いたのは、テレビ局のスピード感、というか〝いい加減さ〟だね。 ある番組の会議で僕がアイデアを出したら、すぐ局側は「いいですね。やりましょう」って。「分かりました。いつまでに台本が必要ですか?」と聞いたら「今晩中」。じゃあ本番は…「あさってです」って。 岩波映画では考えられませんよ。アイデアを練って、ちゃんと企画書を出して、会議にかけて…と手順を踏んでいましたから。逆に言えば制約が多かったとも言えますけど。 テレビはそうじゃない。番組も、ドラマあり、バラエティーあり、ニュースあり、と〝ごった煮〟みたい。そこに僕は、「自由だなぁ。これだったら何でもやれるんじゃないか」と可能性を感じたわけ。 《そんな折、「東京12チャンネル」(現テレビ東京)の開局が決まる。当初は、日本科学技術振興財団が中心となって、各メーカーがスポンサーにつき、科学技術教養番組を中心に放送する放送局だった。テレビに魅力を感じていた田原さんは、同局からの誘いに乗る。昭和38年の秋だった》 一応、面接と論文の試験がありましたけど、事実上〝コネ(縁故)入社〟ですな。岩波映画から引き留められなかったかって? ありませんねぇ。企画を出してディレクターとして演出を任されるようになっていたけれど、岩波映画は〝ちゃんとした会社〟だから、僕にはその「才能」がない(苦笑)。 その点、テレビ局というのは極端な話、スポンサー(おカネ)さえ集めればいい。そして、視聴率が取れれば、スポンサーがつくんですよ。 12チャンネルは開局したばかりで、番組の制作予算も少ないし、社員の給料も他の民放に比べてめちゃくちゃ安かった。僕らは、そんな条件の中で他の民放に勝つ方法を考えなきゃいけない。つまり、他の民放がやれないような刺激的な番組をつくる→視聴率が取れる→スポンサーがつく、といったこと。 《ところが、東京12チャンネルは開局から赤字続き。期待したメーカーからの資金も順調に集まらず、昭和41(1966)年3月、30億円以上の負債を抱えて倒産の危機を迎える。その後、同局は日経新聞社が経営に参画、立て直しを図ることになるのだが…》