日本が第二次世界大戦へと突き進む昭和10年代、3度の組閣を行った近衛文麿にはあまり芳しい評価は与えられてこなかった。1937(昭和12)年、国民の期待を背負って船出した第一次内閣は、日中戦争の拡大を防ぐことができず、むしろ、進んで戦時体制の確立を画策。中国戦線が泥沼化する中、軍部の圧力に屈して和平工作を断念、1年半余りで総辞職する。 その半年後、ドイツのポーランド侵攻で第二次大戦が始まると、国内にこれに続けとの声が高まり、近衛に再び大命が下った。この際、近衛は東京・荻窪の私邸に松岡洋右外相、東條英機陸相、吉田善吾海相を集め、挙国一致による新体制の構築を確認する。世にいう「荻窪会談」であり、これによって日本の政党政治は終わりを告げたと言えよう。 しかし、この四者会談は同床異夢だった。南方進出を目指す海軍が40(昭和15)年9月に北部仏印に侵攻、米国と真っ向対立する。かたや、陸軍は対ソ戦を視野に日独伊三国同盟締結を政府に要求し、北方への進出を図る。では、近衛はどうしたのか。 陸軍とともに対ソ戦に走る松岡外相を除くため、近衛はいったん総辞職したのち3度目の組閣を行い、米国との衝突回避を目指して外交交渉を展開する。だが、米国務省は武力による解決に傾いてゆき、近衛は次第に追い詰められていった。41年9月の御前会議において対米交渉の期限を切られると、デッドラインを3日後に控えた10月12日、再び東條陸相、及川古志郎海相らを荻窪に集めて、こう告げたのだった。 「私は戦争には自信がない。自信のある人にやってもらわねば」 近衛は内閣を投げ出した。いまに続く不名誉はこのひと言に集約されるといえようか。